A,宮古から野田まで (浜北通)
高橋(本町の山口川の脇:昔は左岸に形成された”片桁”と言われ主に市が立ったところ)の一里塚から北に向かう浜街道”宮古道”、と”浦鍬ケ崎道”のルートを示します。夏保峠、七戻りなど初めてその名を聞く方も多いと思いますが、昔々このような所があったことを知っていただくとありがたいですね。地元の人でもこうした近世の人々の行きかう街道があったことを知っている方はあまりいないと思います。もし興味あれば実際に歩いてみると昔人、我々のご先祖が生活していた感覚を少し感じることができるかもしれません。昭和初期まではこうした人や牛馬のみが通れる道しかなく、現在私たちが使っている車の通る道などなかったことを想像しつつ、歩いてみていただくとよいのかなとも考えます。
明治七年の宮古村絵図(県立図書館蔵)を見ると、今は誰も知らない市街地周囲の山に名前が記されていて、それはおそらく江戸時代も使われていた名称と思いますので記録しました。今水門工事を行っているあたりは、明治時代築地を埋め立てるとき、”お松ヶ渕”といって、いくら土を入れても埋め立てることが困難な底なしであったとの記録もあり、同じ当たりの水門工事が難工事となるのはすでに予告されていたと考えてもよいのであろうとは感じるのは私だけでしょうか。また古の閉伊川(戸川、宮古川)は今よりはるかに幅も広く、河口部には大きな中州があって、畑や、納屋などがあったと記録されています。現在のうみどり公園あたりは川の中であったことになります。
御水主町(現在の向町、船場あたり)から高橋に向かって少し北上すると、山口川にかかった橋のたもとにきます。その高橋と山口川の交わる南側の角に、浜街道の起点となる”高橋の一里塚”が寛永年間に築造されました(A)。写真の信号機のある十字路の手前です。そこから本町(もとまち)を北上するのが浜街道の本道(B)になります。本町を北上し突きあたったところに高札場がありました。そこを右折し常安寺前(C)を通り常安寺の”寺坂”を登り、中里団地の西側(変電所あたり)を過ぎ、宮古二中の下で国道45号線にぶつかります(D)。嘉永六年の三閉伊一揆の時、寺坂の峠で代官所の手勢が鉄砲などをもって南下する一揆勢を遮ろうとしていた所です。国道を北に横断し、左にあるお宅の北の”あうぇっこ”を入って小道を佐原団地でますが、そこから旧街道跡は佐原団地の工事のため完全に消滅しています。佐原団地の北端の公園から北側に谷筋に再び旧街道が残存しています。それを下り旧国道45号線にぶつかると、そこが所払場(とこれえば)で浦鍬ケ崎道との合流する所です。その合流部に関しては次の「浦鍬ケ崎道」をご覧ください。
盛岡からの宮古街道は、舘合から旧国道106号線として、保久田から横町、そして浜街道が本町を北上して常安寺方向に曲がるところで合流します。正確には宮古小学校校門前に昔は桝形があって、ここまでが宮古街道でした。さらにその桝形から宮古小学校の東側を北に向かい、魚菜市場や宮古消防署の東側の一段高くなった所にある道が黒森山への参詣の道であり、また、山口を通り、蜂が沢から雄又の峠と岩泉に向かう街道の分岐でした。その岩泉への街道は、御用的には”中北通(なかきたどおり)”といいました。
A):高橋の交差点。十字路の手前の両側にかつて一里塚があった。ここが浜街道(浜辺道)の起点であった。まっすぐ行くと街道の本道。この通りは”御水主町”とよばれ、盛岡藩の藩船の乗組員(水主=かこ)が居住していました。
C):宮古街道ほ本道の、常安寺前。ここをまっすぐ北上し”寺坂”を登っていく。
おまけ:横町から東側の宮古小学校前の宮古街道方向を見ると、道がわずかに曲がっているのを見て取れます。ここが古の桝形の痕跡です。
B):本町(モトマチ)、浜街道本道。突き当りには高札場があった。街道はそこを右折する。左に曲がると宮古街道で盛岡に向かう。消防団第八分団屯所のところに桝形があり、そこから北に黒森山と岩泉に向かう、”中北通”が分岐する。
D):寺坂を登り北上すると宮古二中下で佐原団地近くの国道45号線にでる。そこを突っ切り北上する。
高橋の浜街道の起点となる一里塚から北に本町(もとまち)を北上し突きあたる横町(高札場があった)を右に折れ常安寺前を行くのが、浜街道の本道(宮古道)ですが、一里塚を山口川(現在は暗渠)を越えて交差点をすぐに東に曲がると下町(現在は本町に含まれる:写真の右側の町筋)(E)です。道路の下には山口川が暗渠となって存在します。そこを鍬ケ崎方向に行くと中央公民館の下に宮古通の御官所(代官所)がありました。その沢筋は御蔵の沢と言い、御官所の蔵があったためそう呼ばれます(F:解体中の建物の所が御官所、その後ろに御蔵があった)。さらに東進すると閉伊川に張り出した愛宕山の岩崖があり、NTTビルの所で閉伊川に張り出しており、満潮の時は、宮古町から鍬ケ崎への道は水没するため”七戻り”と言われました(G)。左に見えるビルの所まで閉伊川でした。岩崖の上に愛宕神社が鎮座します。そこを開削し道を付けたのが、牧庵鞭牛和尚です。NTTビル裏に供養碑があります(H:この写真の右側遠くに見えるのが国道106号線=宮古街道の始まりに建つ鞭牛和尚の姿を模した碑です)。大正時代に光岸地と鍬ケ崎の間の”鏡岩”に切通しができるまでは宮古町から鍬ケ崎に行くためにはは夏保峠を誰しもが通ったのです。そこを愛宕山に沿って北上すると愛宕神社入り口の石碑に出会います。”アダゴさん(愛宕神社)”は賑やかなお祭りなどで出店もいっぱいあり、遊び場の一つでした(I)。この古碑の隣には古に石勝寺というお寺があったそうですが、今はありません。小学校の周りには墓石がごろごろしておりました。さらに行き鍬ケ崎との境の山にあがる所から旧道を行くと(J)、国道を横断し、夏保峠につきます(K)。ここは北の崎山方向、南の光岸地、東の鍬ケ崎、さらに西の愛宕・宮古に行く大事な峠道でした。夏保峠を下り常安寺分院の脇を通って鍬ケ崎の上町(昔の花街)にでて、道は北上します。その途中七滝の坂の脇を通り過ぎます。浦鍬ケ崎道はおくまんさま(熊野神社)のそばを過ぎ、蛸の浜に行く坂を上がり心公院を墓地の方に回り込みつつ上がり(L)、旧道を進むと浄土ヶ浜の道路につながります。そこを北上していくと”泣き坂”をへて宮古道と所払場で合流します。
ちなみに、文政年間日本地図をはじめて全国の測量をして作成した、著名な伊能忠敬が宮古に来たとき、ほぼ確実に浦鍬ケ崎道をわが旧舘から夏保峠を越えて鍬ケ崎に行っていると思います(国土地理院所蔵:伊能大図彩色図 より)。
信号機の交差点の南に高橋の一里塚があり、北上すると本道。山口川が暗渠となって流れるこの道を手前(東)に向かう。ここから右手に下町と続く。
左のNTTビルまで閉伊川であった。右の愛宕山も崖を崩す前にもう少し張り出しており、潮が満ちると宮古町からここを通って旧舘、鍬ケ崎に行けない状態となった。
愛宕神社への入り口に近世の石碑があります。子供時代の遊び場の一つでした。右側には石勝寺というお寺がありました。手前の道が伊能忠敬も通った、浦鍬ケ崎道です。三閉伊路程記の絵図をみると、七戻りの岩山を削除する前は、愛宕神社への参道は今のNTTビルの東側の方にあったようです。
手前から北からくる道、右側から旧舘からくる道、奥からは光岸地から登ってくる道、左側へは鍬ケ崎に下る道が交差します。古の夏保峠です。その昔宮古町から鍬ケ崎の花街に通う衆も鼻の下を伸ばしつつ通ったことでしょう。
ビルの所が宮古通の御官所(代官所)でした。背後に御蔵があったので、御蔵の沢と呼ばれます。
この七戻りの崖を崩して道を作ったのが鞭牛和尚であった。道供養碑と右の国道106号線の起点に小さく見える和尚の碑が佇んでいる(現在はうみどり公園に移設)。感謝。
山の中腹にある家の所が旧舘側の(鍬ケ崎に行く)夏保峠登り口です。旧愛宕小学校の東側にあります。ここも子供時代の遊び場でした。
L):蛸の浜の峠(日和山)
鍬ケ崎から心公院の所にあがると3.11の津波も越えた峠にで、ここから左に登坂を行くと浄土ヶ浜大橋方向への道の西側を旧街道は通り”泣き坂”に至ります。
4)所払場(とこれえば)周辺
本道は、常安寺の”寺沢”の坂を宮古二中方面に上り、佐原団地造成で一部消失するものの、同団地北側の公園から沢筋を降りていきます。この道はよく保存されています。降りると大沢地内の浦鍬ケ崎道との合流点である”所払場”となり、鍬ケ崎の心公院から北に上り来る(A)浦鍬ケ崎道が浄土ヶ浜大橋から浄土ヶ浜に向かう車道の西側の土手上に藪化して残っている道(B)を経て泣き坂(C)を下り、所払場で合流します(D)。合流部も藪化し崩れていたりしますが保存されています。その近くに近世の庚申塔が2基斜めに傾き立っています(E)。合流する直前の沢の南側に残る本道を(F)に示します。本道と浦鍬ケ崎道が合流し、大沢方向に大沢川に沿って旧道は行きます。
なお、大沢の石碑群のある”岩の穴”という名前は地元の住民の方々に聞いても、誰も知らず、由来不明です。路程記に記録された名前です。
鍬ケ崎を蛸の浜方向に行き、坂をあがると心公院があります。
その蛸の浜側の海を見渡すところが”日和山”といいます。その裏をお墓の方にのぼるのが浦鍬ケ崎道でよく残っています。
浄土ヶ浜大橋のたもとで旧道はいったん消滅しますが、橋の下の旧国道45号線を北に少し行くと右に入り、藪中に下り坂が立派に残っています。下から牛に荷物を載せて上がってくると、牛がもう登るのは嫌だとモーモーと泣いたため、”泣き坂”とついたといいます。(別の説あり)
本道が佐原の坂を所払場に下ってきて浦鍬ケ崎道に合流する前にこの庚申塔が苔むしています。
心公院からの道を浄土ヶ浜への車道にでて、すぐに道路西側の藪にはいると旧街道が残っています。これをたどると浄土ヶ浜大橋のたもとにでます。
台風で掘れていますが、正面からくる本道と左からくる浦鍬ケ崎道がここで合流します。この合流点を含む一帯が”所払場とこれえば”と呼ばれ、路程記では一軒の家があったと記録されています。そのT家は今も健在です。
沢の林側の藪にみえるのが旧浜街道の本道です。奥方向が佐原団地方面となります。
5)大沢から崎山
大沢から沢沿いに崎山に向かうと、昔宮古で稼いだ男衆が崎山に夕方帰ってきて、一杯ひっかける”サスガ久保”に居酒屋風の店があったそうです。そこを上り詰めると”塚場”で一里塚があったところですが、現在その痕跡に電柱が突き立っています。一里塚は最近も自動車道の工事のため山田の間木戸一里塚、BRT工事に関わり、大船渡市の丸森一里塚、昭和40-50年頃は宮古市の赤宇田の一里塚がグランド造成で消滅しています。我々の先祖が生きてきた時代の文化財をなんとか残すことが大事と思います。また今の国道あたりには”上在家”というところがあったそうです。国道と旧国道(県道)の合流するあたりが、昔の崎山村と崎(先)鍬ケ崎村の境になります。その頃鍬ケ崎は、今の鍬ケ崎である(湊地区)浦鍬ケ崎とその先にある崎(先)鍬ケ崎にわかれていました。サスガ久保付近の旧街道は舗装はされているものの、往時の姿で残っています。
(A)は所払場から佐原につながる道(本道)で、よく姿をとどめていますが、佐原団地内は一切旧街道あとは消滅しています。(B)は大沢の部落の東側、”岩の穴”の石碑群です。ここを崎山方向に向かうと若宮八幡社を回り込み、舗装されているも姿をとどめている旧道を”サスガ久保”を通って北上します(C)。サスガ久保には昔一杯飲み屋のお店があり、宮古で働いた崎山の人たちが仕事帰りに一杯ひっかけてから帰って行ったとのことです。(D)は”塚場”の一里塚のかろうじて残存する塚の痕跡と考えられるものです。ここから下在家を通り、国道45号線脇の”上在家”(もとは屋号)の脇を、国道45号の北側に至ります。このあたりを”上崎”とも言ったようです。最下段の写真は、現在潮風トレイルとして使用されている、蛸の浜から海べりを通って大沢に至る、浜街道のいわば脇道です。ここは崎山の古老の話では、幕末の宮古港海戦の時、鍬ケ崎から崎山に、「宮古で戦がはじまった」という話が伝わり、崎山の侍身分だった人が「それっ!」と鉄砲(ひょっとして火縄銃?ゲベール銃?、幕末でも南部藩の銃装備は貧弱であったことを考えると、どんなに進化した銃でもせいぜいゲベール銃と思われるが・・・。)を背負って、この道を鍬ケ崎に走ったそうです。私が歩いてみると小一時間で大沢-蛸の浜間を歩けました。その人が鍬ケ崎に着いた時は、とっくに戦は終わってた、とのオチです。因みに宮古港海戦は史上有名ですが、時間にすると30分程度で終わった戦であったようです。余談ですが、その戦に参加できずに逃亡した箱館政府側の(もとは秋田藩の)軍艦高雄は、田野畑の前浜に乗り上げ座礁し、乗り組んでいた兵は陸に逃亡したものの、ほとんどが西軍(官軍とは言いません)、に降参し、田野畑村の机の部落の家々に収容され、後に盛岡に連行されたとのことです。その中の何人かは降参せずにしばらく隠れ、その後明治の中期ごろに普代や田野畑で学校での教育に尽力した武士もあったことをあげておきます。
A) 佐原から沢沿いに所払場に下る本道です。よく残っています。
C) 大沢から”サスガ久保”を通って、下在家に行く途中の旧道で舗装されてますが、よく保存されています。
地形に沿ってうねうね往くのが旧道の特徴の一つです。
(補足)浦鍬ケ崎道の脇街道で、蛸の浜から海べりを通り大沢と鍬ケ崎を結ぶ道です。現在潮風トレイルとなっています。絶景の場所があります。
B) 所払場から大沢に向かう旧道の”岩の穴”と呼ばれるところにある石碑群です。地元では”岩の穴”という名前は誰も知りません。路程記に記されているということは、そうした名前があったのだろうと推測します。
D) 旧道が下在家に上ってくると塚場というところで、一里塚があったとされます。昭和54年の県教育委員会の歴史の道報告書「浜街道」の写真では、この電柱のところに小さくなった塚が映っていました。この土盛はその残りでは、と思います。
旧崎山に入った旧街道はいったん現在の国道45号線の西側を北に向かう(A)箱石への分岐には道標がある(B)。その後再び国道45号線を東にわたるが、そこで国道開削により道筋が中断します。崎山小・中学校のそばを”一の坂”を下り(C)、中の浜沢縁に降りる。その一の坂はよく保存されており、その坂の名も坂入り口の家の方が記憶されていました。旧道は中の浜の南岸沿いに海の方向に向かうが、台風水害でその後はほぼ消えている。中ノ浜北側のトンネルのすぐ海側の竹林を経由して旧国道45号線の女遊戸との峠を目指して急坂を上がると、旧国道の海側にすこしの切通しを伴う旧街道の”女遊戸峠”がよく保存されている(Dの右によった切通しがみえる。Eは保存されている女遊戸峠の切通し,F:すぐ下に海が見えます)が、その女遊戸側の下りは、旧国道や堤防建設のためほぼ姿は消えて不明です。下段右は峠の女遊戸側に少し残る街道跡ですが、すぐそこに海が見えます。この峠の別名はカマヤ坂
(三閉伊日記)とも言ったようです。女遊戸峠もカマヤ坂も今地元でも知る人はありません。嘉永の三閉伊一揆の時、この峠で待ち受ける藩側と一揆との小戦闘がおこり一人一揆側の人が負傷したとのことです。その後女遊戸部落の東端で、女遊戸川を街道は越え、その北岸で石碑群の前を通ります。
昔の鍬ケ崎は崎(先)鍬ケ崎と、浦鍬ケ崎にわかれていました。浦鍬ケ崎はほぼ現在の鍬ケ崎で、現在の国道45号線の佐原下から浄土ヶ浜に行く道が分かれますが、その道が陸橋で旧国道45号線をまたぐあたりが、崎と浦鍬ケ崎の境でした。崎鍬ヶ崎と崎山村の境は現在の崎山地内で国道45号線から旧国道が分岐するあたりが境目でした。崎鍬ヶ崎村の崎は元々浦鍬ケ崎の先にあったので先鍬ケ崎でしたが、いつのまにか字が崎に変化したものです。
A) 下在家から国道西側に残っている旧道をみています。北上していく街道脇には石碑が立っています。
C-1) 旧道が国道を東に横断し、崎山小中学校のそばを通り、北東に方向を変えて下って行く坂を”一の坂”と言います。路程記にも記載されていますが、坂の入り口のお宅の方が、その名前を記憶しておられました。
D)中の浜の河口付近から海にせり出した山を見上げると、旧国道の切通しの5-6m海側に小さな切通しが見え、これが
”女遊戸の前坂”の峠です。
F) 女遊戸峠から女遊戸の浜をみおろします。三閉伊日記の道中図では同じ光景を絵として残したと記述があります。
B) 左の旧道を北上すると東にカーブし東に向かう旧道と、箱石に分岐する”箱石道”の分岐点に石碑群があります。箱石への道はまだ踏査していませんが、下調べの限りでは歩けそうです。
C-2):一の坂下中の浜川脇北岸に残る旧道。
E):女遊戸峠の切通し。
南側ではS字状の上り坂が残りますが、北斜面は平地まで一切旧道は残っていません。堤防や各種施設建設などで消滅しました。
7)女遊戸から松月(まっつき),石名坂
女遊戸の川の北岸を旧街道は通り(A:川の右が旧街道)、石碑群(B)の前を西に向かう。少し往くと沢筋を北にあがる道(旧街道で路程記で”さいかつ立つ坂”とよばれており、よく保存されている)を登る(C)。実は”さいかつ立つ坂”の沢に入る前、ひとつ東側の沢あたりに、脇道みたいな坂道があり、地元の人はよくこっちを使っていたと地元の方が教えてくれました。主街道は前者であったようです。主街道の一部は台風で崩落しているが坂の上はゴルフ場入り口にでる。そこから旧道は消滅し不明であるが、福祉施設の脇を通り一里塚があったとされる赤宇田を通る。グランド造成で存在していた一里塚は破壊され消滅しました。叢と化したグランド(D)を北上すると、松月の”向の坂”(E)を下ります。この坂は旧街道の姿をそのまま残しており九十九折れも昔のままと思われます。松月部落内は旧道は不明である。旧・新国道45号線の盛土などの工事で破壊された(F)。新国道45号線を北に渡ると、いつかみ沢があり、それを越えると松月の”後の坂(G)”が残っている。登坂の上の部分には切通しも一部沢化しているものの残り往時を偲ばせる。その場所に台風で崩落した部分がみられる。それから先の西側は皆伐状態となった牧場との境を下る。林道化した道をいくと石名沢につく。渡渉可能で、そこを渡ると右斜めに登り、さらに左上に曲折した”石名坂”(H)と切通しが見えてくる。これを越えると古田(ふった)である。
A) 女遊戸峠を下り、ほぼ女遊戸川に沿って旧道は西に向かいます。川の北岸を旧道が残ります。
C) 石碑群から100m余り西に行くと、小屋の脇を北の沢沿いに入ると登り坂が昔の姿のまま残っています。一部は台風水害で道は崩壊していますが、坂の頂上近くにあがれます。路程記では”サイカツ立つ坂”となっていますが、サイカチの木は小さな一本のみで見当たりませんでした。坂は宮古カントリークラブの門前にでます。
E) 一里塚があったとされる場所から、よく旧態を残している松月”向い坂”を下ります。途中で5-6曲がりの九十九折れがあります。
G) 後の坂の上部は切通しが残っています。道の真ん中は沢化したためか掘れていますが十分歩行可能です。こうした結構の工事量を要する切通しが各地の街道に存在します。鍬などでこうした作業を行った苦労が偲ばれます。
B) 旧道脇に石碑群が地蔵堂と一緒に迎えてくれます。
D) さらに北上し若竹学園脇を北に少し行くと使われなくなった草茫々の削平された場所にでます。ここの北の端に”赤宇田一里塚”がありました。県教委の報告書内の写真では、小さくなった塚が記録されています。
F) ”向の坂”を下ると、水害で橋が崩壊した油沢を渡渉し、松月に入りますが、そこから国道45号線の北にある旧道までの間は完全に失われています。国道北に入ると“いつかみ沢”を渡り杉林内の松月”後の坂”を上ります。
H) しばし杉林内の林道化した道を北上すると、田老の樫内に流れ下る”石名沢”に出会います。周囲は藪ですが藪を漕いで、沢を渡ると、2-3曲がりの切通した”石名坂”を登ります。
石名坂を登ると平坦な林の中の道が緩いカーブを描いて続きます。その途中街道脇に元治元年の拝禮塔が物寂しく立っています(A)。そこを少し往くと昔ながらの田んぼのある場所に出(B:夏には蛍が飛ぶといいます)、小沢の土橋を渡ると杉林の中に廃屋となった古田家(ふるたけ)の家(C)が残っています。路程記に”古田(ふった)一軒”と記録されている家です。その前を通り、左に曲がっていくと駒止桜と古碑がみえてきます(D)。その手前20mほどに駒止桜の物語の(実話)ヒロイン、鍬ケ崎で遊女であった利世さんのお墓が残っています。そこから”まはせ長根”という右に緩く曲がっていく長根道をしばらく北上します(E)。携帯電話の基地局があるあたりから左の林道に入り、道なりに行きます。切り開かれゴミ焼却施設などのある場所を通り杉林の境の沢筋を下ると”栃木坂”でそこから旧街道が残っています。道なりに下ると崖に面した切通しが現れますが、台風の被害で崩落しており、そこは寸断されています。その傍に気づかずに通りすぎてしまいそうになりますが、ひっそり拝禮塔と小さな丸い石碑が傾いたり横に倒れて存在しています(F)。そこから台風で掘れてしまった道筋を下ると水産加工団地の道につきますが、ここから先は旧街道は一切消滅しています。しばらく田老町内の市街地の平地を北に向かいます。
A);石名坂を上がり小さな切通しを進むと旧道はよく残っています。すると“元治元年の拝禮塔”がひっそりと立っています。今は通る人もなく拝む者もおらず寂しそうです。
C):古田の中に廃屋となった古田(ふるた)家が佇んでいます。路程記で”古田1軒”と記録されている家と思われます。古田には今や誰も住んでいません。
E):旧街道は旧国道45号線となって、旧態をとどめませんが、ゆっくり孤を描くように東の方にカーブします。そこに一里塚があったということです。が、前後の一里塚との間隔を測定すると、ここでは距離がかなりあいません。路程記ではここを”まはせ長根”と呼んでいます。
B):拝禮塔をあとにさらに進むと古田(ふった)に着ます。そこは現在人家はなくあるお宅の田んぼが懐かしい風景の中にあり、夏は蛍も飛ぶそうです。昔の風景そのままに感じます。
D):古田家から100m程度行くと、”駒留の桜”と石碑群があります。ヒロインのお利世さんのお墓は30m程度南にひっそりと立っています。
F):まはせ長根から(現在携帯電話?の電波局が立っているところ)”栃木坂”を下ります。旧道はまずまず良い状態で存在します。坂の途中には残る旧道に向かって拝禮塔が傾いて立っています。旧道は写真やや右側の木の隙間の所です。
田老から小本までは次のページになります。