3,岩泉町・小本から田野畑村
1)小本から中野坂
小本川河にでて、”おさ橋”(三閉伊日記)を四十間渡ると(A)、中野地内に入り中野の集落に向かいます(B)。県教委「浜街道」では集落の南側から中野坂に行くルートとなっていますが、大正5年の地図および昭和23年の米軍航空写真でもそこには田畑のみで道はありません。中野の集落内を街道は行き(C)、中野坂下(C-2)にくると、そこは小本街道との分岐で道標はじめ、古碑が多数みられます。中野坂を上がると国道から下の部分(D)は多くが生活道路としてそのまま残っています。国道上は「浜街道」の記述で”雑木、雑草に覆われて明らかでなくなる”とされています。しかし、踏査するとほとんどが非常に良い状態で残っており、この調査したルートはほぼ正確に地図に図示し得た。具体的には国道から沢筋の東側(E)を通って登り、そのドン詰まりになるあたりから右(東)側に鋭角にカーブし斜面を登る(F)。その後さらに左にカーブを描き(G)坂のドン詰まりの高所の東側を回るようにその高所の上にでていく。そのあたりは地竹が長さ20m程度の長さで生えているが、道跡はよく残っています。さらに行くと結構な工事量の手掘りの切通し(G)があり、そこをすこし右に曲がりつつ崖際を行くと(H)、国道45号線の中野坂の最上部から南に向かっての下がり口の崖を削除した場所で、その上に立つコンクリートの小さな構造物(H2)の背後に至って、道は消滅する。旧街道はこの削除されない馬の背状の細い尾根を北側(手前側)に抜け、坂上の国道の東側に残る旧道に接続していたと考えられます。
中野坂の国道から上の部分は、県教委歴史の道調査報告書「浜街道」では、”国道45号線を横切って奥に入っていくと、山林の中に雑木や雑草に覆われて明らかでなくなる・・・・。”と記述されているが、実際国道45号を上部に入ると大きな空間に旧街道がのこり、さらに上っていくと、坂の最上部を反時計回りに回り込みつつ最高部に登っていく、非常に明瞭な旧街道を確認できる。国道45号線の最上部が中野の坂の下りに入る切通しの上部に建つ小さな鉄筋コンクリートの建物の東裏まで道跡は追うことができた。この坂=旧街道が使用されなくなり、人々の記憶からも消えていってから、明確にこの旧浜街道を確認し公開できることは非常に大きな喜びになった。
この旧街道の中野坂(国道から上部)を明確にそのルートを確認できたことは大きな成果であったと考えられる。
A)小本川の小本・須賀町サイドから川越しに中野の部落をみる。
C)中野の部落を西に進むとこの石碑群の60-70m程度東に一つの石碑群があり、この中野坂下の所に着く。
D)中野坂を登ってくると旧道は国道45号線までよく残され、生活道路になっていると思われます。
F)坂の高見の斜面を登り反時計周りに登っていく”うどう道”です。
G)高みを回って北側に登ってくると、切通しを通ります。結構な工事量に関します。旧街道を探して歩いていると、
鍬などで手彫りした切通しは、その底の道部分の幅、斜面の角度などから現代の機械掘りによるかどうか、結構わかるようになります。
H2)国道の坂最上部から南をみると坂が下り始める切通しの上部に矢印で示す、電光掲示板などの機器が入っている?小さなコンクリートの建物があり、その裏まで旧街道が存在します。手前の馬の背の長根で国道が旧道を飲み込んだと思われます。
B) 小本川を中野に越えると、橋から中野の部落に通じる道あとが明瞭に残る。道をほぼ突き当たった所から左折すると中野の部落となる。
C2)正面に見えるのが中野坂の上り口で、左に向かうのが小本街道となる、街道の分岐点である。石碑の一つに道標があり、野田と岩泉の方向を示している。
E)国道45号線を横切って上に行くと、このような空間が広がり、枯葉が山ほどあるのを除けば、昔の道がそのまま残っている状況をみれます。この写真の突き当たるようになったところで、旧道は右に曲がりつつ斜面をさらに上って行きます。
F-2)の道を徐々に左に旋回しつつさらに上るとさらに左に回りつつ登っていきます。
H)さらに上ると東側(左手)は崖になっており、右側の少し上にコンクリート施設がたっています。ここは”馬の背”状に幅のない長根となっていると思います。このあたりで旧道は国道に重なって消滅します。
2)中野坂上から大牛内
中野坂を登りきると、国道45号線に200m程度取り込まれた状態で北上し、東側の林の中に方向が変わり、そこには林の中に旧道が拡張された形で残っています。さらにその道をA)をへて北上するものの、真庭に入る道が国道から分岐する南側で消滅します。地元の古老の話では、国道の西側に昔の道があったと話を聞いた、とのことでした。しかしその辺りを踏査しても明らかな旧道跡は見出すことはできません。真庭から国道に道がでてくるあたりから国道西側の林の中に旧国道などと一緒に旧道と思われる跡をみることができます。そしてC)地点で国道が東方向に大きくカーブするところで、旧道は旧国道として分岐し、滝臀沢に向かいます。滝臀沢は北岸に渡渉可能ですが、沢に土橋がかかり、朽ち果てた状態になっております。そこから林道化した旧道が時に使用されている道として北上します。
江戸時代末期元治元年、南部藩主が沿岸巡視の時に一時休息した場所として、また路程記にも”鍬台沢””鍬台尻”という地名がでてきますが、調査開始1年あまり経過しても場所が不明でした。しかしようやく”鍬台くわだい”は閉伊の言葉で発音すれば”かあーだい””かんだい(かんでえ)”などとなり、それを手掛かりに大牛内地内の聞き込みを行ったところ、鍬台は「かんだい官台」と判明し、具体的な場所もそうした記録と一致します(D)。上図をご覧ください。”官台(鍬台)沢”は滝ノ臀沢”の支流の一つでした。
A):右に見える国道45号線の東側に、中野坂を登り切って国道と並行するように残る旧街道がある。
C):滝臀沢(路程記では”鍬台沢”となっていると考えられる)には石組の基礎に、土橋がかかり、崩壊せずに残っていた。ここから北に街道は林道化しつつ往く。
B): A)から北上すると国道の東側の林内に、確定的ではないものの旧道跡のような痕跡がある。県教委の記録では真庭の部落内の道が旧街道、としているが、真庭は開拓部落で近世には存在していないし、大正の地図でもそこに道はみられない。
D):旧街道を林道化し、拡張して牧場や牧草地の作業にしようしています。あまり通る人もなく旧態とは違いますがよく保存されていると思います。このあたりが”鍬台”(官台)と判明。
3)大牛内から槇木沢
牧草地あるいは牧場に使われている旧街道を拡張した道は清水野地内を国道の西側を林の中を北上していきます。A)で国道と交差しますが、その切通した斜面に寸断された姿をみせています。国道を北側にわたり、水害で崩れた沢(路程記の”こくれ渡り沢?)をわたり国道のすぐ東脇を北上、大牛内へ国道から分かれる道の十字路で国道から斜め左の北西方向に林の中を、旧街道はその姿をみせて北に向かっています(B)。100m程度で砂利道と交差し、その北に広がった牧草地で旧道は姿を消しますが、牧草地の西の林の脇を行くと、旧国道跡に姿を変えているものの、西に向かい弥生沢にかかっていた橋跡に着きます。県教委の「浜街道」には”土橋”と記されていますが、落橋している橋をみるとコンクリート製の橋であり、その昔どのような橋があったかは不明です(C)。この弥生沢が岩泉町と田野畑村の境です。弥生沢は渡河は容易で、藪の中を牧草地化したと思われる”サイノカミ道路”につながっています。ここに小石を積んだ塞ノ神がある、との記録がありますが、なんど捜索しても発見できませんでした。しかし土地の方々はここを”サイノカミ道路”と呼んでおり、塞ノ神があったことは事実と考えます。 牧草地内の旧道をさらに行くと、自動車道のすぐ南にある弥生沢の支流にあたります。ここを旧国道(防衛道路?)は沢を渡るため西側にヘアピンカーブを取りますが、土地の方々によれば、昔の道はまっすぐ沢に向かって杉林を下り(D)、木橋をわたって、一里塚の方にまっすぐ行った、とのことです。そこにはバッタリがあったそうです(E):”土橋沢”か。したがって県教委の否定する、西にヘアピンカーブを取るのは新しい自動車などのための道で、近世には存在しなかったと考えられます(大正の地図もまっすぐ表されています)。沢をまっすぐに渡った街道は現在の自動車道を突っ切っていくと、槇木沢の一里塚(F)につながります。一里塚は自動車道で削られた陸の斜面ぎりぎりに、なんとか少しだけの盛り上がりとしてかろうじて残っておりますが標柱などはなく、消えてしまいそうです。保存措置が必要です。一里塚を過ぎると国道を横切り槇木沢に降りていく、いわゆる”思案坂”の南側の降り口につきます(G)。路程記で、槇木沢は南側からの坂は五丁三十間、北側の坂は九丁ほど、とされています。2022年2/13踏査しましたが、Garminを使って正確なルートを上手にあげております。沢の北岸には海岸にあった塩釜に行く?旧道跡がみられます。
南の坂降り口は道が二筋あり、少し下るとやはり二筋みられます。また北坂の登りの二曲目の所には3ルートが並行する所がみられます。
北側の坂頂上から北部分は自動車道造成と森林伐採でほぼ消滅状態ですが、Google earth2014年4月でみると、砥取場沢坂を越えて十文字に至るルートがなんとかわかります。大芦の十文字には石碑群があります。
A):旧道が国道にぶつかる斜面の少し上に旧道跡が残っている。このまま旧道は国道を横切り向こうの沢筋に下る。
C):牧草地となり一時消滅した旧道を弥生沢方向に西に曲がりつつ進むと、旧国道あるいは防衛道路となった旧道が存在し、そこを右(北)にカーブを始めた所に”弥生沢橋”があった。コンクリートの橋は崩落したままとなっている。
D-2):少し来ると牧草地あるいは畑の中を旧道は行く。向こうの林の中に沢がある。
F)自動車道のすぐ北側の松林の中に槇木沢一里塚がある。しかしかろうじて盛り上がりを残すが、このままでは消滅してしまう状況となっている。
G-2)槇木沢南の降り口すぐの所には二筋の道がついています。ダンコ付けなどのすれ違いに使われたのでしょうか。
G-4)北坂の峠下。
ここを上がり切り、いったん砥取場坂を下りて登ると大芦にいたります。砥取場坂・沢あたりは自動車道工事で旧道は完全に消滅しました。
B):沢近辺の道跡は不明となるが、沢を登ってくると国道東側に旧道跡が明瞭に残っている。そこを大牛内部落に入る道が右に分かれる交差点から左斜め北西に旧道跡が続く。(カーブミラーの左側の木の間)
D-1):弥生沢を越え、少し切ると叢となって道跡が不明な場所となる。あるという塞ノ神は再三の捜索でも未発見である。見える建物の右側をサイノカミ道路が北上していく。
E):林の中を舗装道路から外れて沢にまっすぐ下っていく。そこに昔木橋があり、バッタリもあったという。沢=土橋沢を渡りまっすぐ行くと槇木沢の一里塚に到達するが、その前を現在三陸自動車道が横切っている。
G-1)一里塚を過ぎ、この旧道が国道を横切り、木立の左脇をすすめばすぐ槇木沢坂の降り口となる。五丁三十間の下りである。
G-3)北坂の途中から槇木沢橋を望みます。
付録:槇木沢坂詳細図
4)大芦から松前沢
槇木沢のいわゆる”思案坂”を北に上った大芦から、”辞職坂”の松前沢までの間が古の”浜岩泉村”です。その中心が大芦になります。
槇木沢を九丁登り、大芦に入る前、砥取場沢の橋を越、砥取場坂をあがり大芦に到着します。その旧道は現在自動車道工事でほぼ消滅しましたが、大芦の十文字の南側に少し残っており、そこには石碑群が佇んでいます(A).そこから北に向かうと国道の東西に旧道跡は確認できず、国道に取り込まれていると思われます。大芦の集落内の国道を500m程度進むと国道が左にカーブする手前に石碑群があり(B)、カーブの下は“フケノ沢”が流れています。そのカーブで旧道は国道のすぐ東の松林内に跡を残しています。さらに200m程度進むと右にカーブする国道を旧道は西側に移り(C)、国道と砂利道の間のくぼ地に跡を残しています。その後旧道はまた東に国道をまたぎ、国道で削除された地形の凸の部分を西に回り込み沢をこすなどのルートをとります(D)。浜岩泉公民館と国道の間を行き、自動車道の陸橋が国道を西にまたぐところのすこし北の登り坂の国道西脇にくぼ地となって残ります(E)。さらに北上すると国道は西にカーブし松前沢にかかる思惟大橋に向かいますが、旧道はそのカーブで国道からわかれまっすぐ北にのぼり(F)、牧草地も含め道跡は消滅していますが、そこを行くと松前坂の降り口に到達します。そこにあるとされるサイノカミは見つかりませんでした。
A): 槇木沢坂を大芦まで登ってくると、大芦十文字の南側に石碑群があります。その十文字の角にはお茶屋さんであった家があります。浜岩泉村の中心が大芦になり、十文字の西は岩泉方面、東は島越に向かう道になります。
C):フケノ沢を過ぎると国道右手の林の中にかろうじて旧道が存在しています。地元の少数の方は、ここが旧街道であることを伝え聞いておりました。
E):浜岩泉公民館そばを過ぎ、現在自動車道高架が建設されている所を過ぎるとゆるい登坂の西側の藪の中に工事され掘られた旧街道の跡を認めますが、すぐに人家のため消滅します。
B):大芦地内での旧道はほぼ国道に一致しており、国道の東西に旧道跡をみることはできません。十文字から500mほど来ると国道の東に石碑群があり、その少し先で国道が左にカーブするところに”フケノ沢”が流れています。その先で旧道は国道の東側の林の中にみられます。そのあたりが高くなっており、路程記の”フケノ沢峠”と考えられます。
D):さらに北上し、旧道は国道の西側の脇に移り進むと、また国道のすぐ東脇の人家のそばの小道として残っている所があります。ここは古は尾根が張り出した所で旧道はその縁に沿って作られています。
F):松前沢にかかる思案坂大橋に向かって国道が西にカーブするところから旧道はほぼまっすぐ走り、国道の右に分岐していきます。その道は舗装され、突き当たると道は消滅し牧草地となります。そこを進むと松前沢坂(辞職坂)の降り口に着きます。残念ながらそこにあるというサイノカミは見つけれませんでした。六丁ほど下ります。
5)松前沢から菅窪
松前沢坂(”辞職坂”)は6丁下り、7丁登ると路程記にあります。坂の長さのみではなく、地図をみていただければわかるように、きつい坂を上り下りするため、羊腸の坂道になっています。約120mの高低差を一気に下って登ります。
菅ノ久保の一里塚は現在東塚のみが、石碑一基とともに国道脇に残っていますが、標柱などもなく、薪などに覆われ文化財として保存処置を講じてほしいものです。約300mその後の街道は消滅していますが、藪を越えるとほんどう沢への下りとなります。そこの旧道は時に使われているようなのですが、沢を北側に渡ると水に削られて切通しとなっている道がゆるいカーブを描いて登って行きます。現在橋はないものの、橋があったと考えられる沢の両岸に、石で組んだ基礎が残っています。そこを進むと菅窪の交差点にぶつかります。国道を横切ると国道西側の畑との境に
細く旧道跡が残っています。そこから北は200-300m程度国道に飲み込まれた形で北上します。一つ目の横断歩道の所から国道の西に30度くらいの角度で別れる、民家の軒先を行くような旧道あとがみられます。そこを行くとハイぺ川の最上流の沢を上流側に交わして北岸に渡り北上する田と接する旧道を行きます。また国道と合流し行くと、田野畑郵便局の30m程度手前の柱状の石碑(道元堂前と言うそうです)を左に曲がり50m程度行ったY字路の真ん中あたりから、現在は残っていない旧道を登って行きます(実際道はなくなっており行き止まりですが・・・)。そこに旧道があったことは、屋号”松の越(地名ではない)”のH家の刀自から教えていただきました。今はない道を松の越のある所に坂を登り、そこから西側の現在の県道の西側の藪の中にある旧道を平井賀川(平波沢方向)に下って行き、”平波沢橋”に着きます。藪化している道を県道にでた地点と、橋のたもとに石碑があります。橋を渡り東に少し往くと県道北に分かれる砂利道の旧道があり、そこを進むと国道45号線にぶつかります。そこで国道の北側をよく見ると、民家の西側の藪に坂をあがる細い旧道があり、そこを登って行くと、田野畑村民俗資料館の駐車場の端に
着きます。そこには鍬形神社の近くにある、明戸道と平井賀道の別れにあった石碑が移設されています。そこから民俗資料館の脇の舗装された道を”田野畑”地区に行くのが旧街道になります。県教委の示す、国道から民俗資料館にあがってくる車道は最近できたもので、旧街道ではありません。そこから緩くカーブする山と田の間を民家の間の細い道に移りは林の中を行くと鍬形神社の前を通ります。そこをさらに100m程度行けば、左=明戸道、右=平井賀道のY字路分岐に至ります。そこには大きな石碑が迎えてくれます。旧街道は左の明戸道になり、国土地理院地図にも
記載されない、立派に残っている(拡張林道化はあるが)林の中の旧道を行きます。そこからは廃屋はあるものの、人は住んでいない地区になり、林に囲まれた長根道を行きます。この長根道は旧道の雰囲気を十分に残しています。
A-1)松前坂南坂降り口、松の根元に小石がたくさんありますが、塞ノ神です。ここから一気に坂を九十九折れで下ります。
A-3)南坂の遠景です。旧道跡がよくわかります。
A-5)橋があった川岸に、橋供養塔が建立され、寂しく佇んでいます。今は橋はありません。
C):菅窪の一里塚、東塚のみ
残っております。右に少し写る道が松前坂方向からの旧道です。そこに写真右端に写る石碑が残っています。
E):旧道は菅窪で国道の西側にいったん迂回し沢を渡り北上する。写真の車の向こう側に旧道が残り現在砂利道で使用されている。
A-2)かなりの斜度の坂を九十九折れで下ります。南の坂は十七曲を数えます。
A-4)松前沢と昔橋があった川岸。向こう岸が北坂の上り口になります。
B-1)北坂は松前沢からそこに北から落ちる枯れ沢をまず直登するように往き、右折し九十九折れで登って行きます。高低差約130mを十三曲ほどありました。
D):菅窪一里塚から北は旧道は消滅していますが、”ほんどう沢”という沢があり、そこを越える道が国道脇の林の中に残っています。その橋跡は石積みの基礎が両岸に立派に残っています。
【松前沢坂(辞職坂)詳細】
2022年2月6日、気温零度の中、南北の松前沢坂を歩きました。沢は渡河できる場所が見つからず、はじめに北坂を下って登り、南坂に移動して下って登りました。ガーミンというGPSを携帯し、その坂のルートを精確に記録し地図上にトレースしております。現在までの種々の資料に松前沢坂や槇木沢坂の経路が記されているものがありますが、GPSによるルートのトレースと比較するとかなり差異がみられます。
北坂の長根道の降り口です。これから羊腸の坂を下ります。
こうした九十九折れが十三回程度続き約120~130mを下ります。
南坂の降り口には古松があり、その根元に小石を積み重ねた
”サイノカミ”が残っています。
ここから一気に羊腸の坂を下ります。
松前沢の南岸に天保年間建立の”橋供養碑”が佇んでいます。その前に旧道跡があり、沢岸に至ります。
北坂の途中から思惟大橋を望みます。
松前沢に流れ込む小沢の脇の旧道は水害でガレ場と化しています。ここをほぼまっすぐ松前沢に向かって降りてゆきます。
北坂より南の坂が崖際を降りる感じがあります。またこぶし大から小さな石が非常に多く歩きづらいです。
石碑まえの南岸から北岸をみると石を並べたようなところがあり、これが橋跡とも推測されます。
6)菅窪から田野畑
自動車もない近世の人々は、機械力さえないので鍬=人力で削り取ることが可能な場所に道を作ります。それがどこかを推定するためには近代の自動車の道の切通しや盛土がある場所を、それがなかったという地図上の、または実地の想像力を働かせて、人や牛馬が歩ける場所を探すことが必要と思います。また沢を渡る時は、ほぼ確実に木橋などを架けるか、そうでない場合は上流側に折れて、浅い場所をわたり、くの字状の道筋になることがパターンです。平井賀川を渡る道筋も上流側に屈曲します。こういう想像力で実地を歩くのはとても楽しい作業です。
路程記に”松の越”が、さも地名みたいに登場しますが、田野畑地内をいくら捜索してもその地名は現れてきませんでした。ある時畑で農作業している高齢女性に聞き込みをした時、地名はないか?との質問すると「ねえ」で終わりでしたが、ぶつぶつっと屋号だがなあ とのつぶやきがあり、それを小耳にはさんだことで、それがようやく近世には肝入りをしていたH家と判明し、そこの刀自にいろいろ話を聞くことができて、道元堂から松の越までの街道の道筋が判明しました。県や村も把握していない真実が判明すると、とても嬉しい一瞬でした。
田野畑地区の北側の地図にない道=旧街道も、そうした聞き込みから道の存在を知り、林の中に潜り込んで、突如石碑と遭遇し、びっくり嬉しい(快感というのか)気持ちでいっぱいになりました。道はそこから普段使用されていない長根の道を1km以上進みます。一里塚がキリプセ峠約50mほど手前北側に残っています。キリプセ峠にはかなり大きな二本松があり、その根の間に小石を積み上げた塞ノ神があります。そのすぐ先から明戸坂を明戸に下ります。下らず長根道を羅賀方向に行きますが、そこから北ノ沢方面に下る道はありません。これが羅賀に往く街道であったか疑問です。北ノ沢から降りてくる道を探しても見当たらず、土地の人も長根から沢筋に下りる古い道はない、とのことでした。
A)国道45号線の田野畑郵便局の南側”道元堂”に立派な石碑がたっています。ここから旧道は手前の道を北西に向かいます。すぐにY字路になりますがその中間に昔は道があり、坂を登って行きます。すると”松の越”と言われるH家の前を通り、旧道は右に折れ北上します。
C):南から平波沢橋方向をみます。旧道は橋を渡り右に行きます。
D-2):先の細道を国道にでてそれを横切ると正面に見える斜面をあがる小道があります。そこを田野畑村民俗資料館の裏手にでます。
F):鍬形神社の鳥居前を林の中を旧道は北上します。
H):明戸道=浜街道を進みます。
地元の方の作業道として使われており、よく残っています。不思議なことに地理院地図にはこの道は記載がありません。
なぜ?
B):A)を黄色の矢印の所に降りてくる山道が旧街道で、この矢印の所の石碑のところで県道に合流します。平井賀川にかかる手前の平波沢橋を手前(北岸)に渡ると東に曲がって行きます。この橋の袂にも石碑が叢の中に倒れて草生しています。
D):平波沢橋から東に向かう道から民家の間を通って国道を横切る道が残っています(草がある所)。
E):田野畑地区を旧街道はゆるく右にカーブしつつ、一番奥の家とカーブミラーの間の矢印のところから鍬形神社の前を通ります。これが旧街道です。ここは田野畑村の田野畑地区です。
G):大峰山の石碑が立つ分かれ道の分岐は、右が平井賀道で、左が明戸道=浜街道です。ここにあったもう一つの石碑は、どんな理由か、田野畑村民俗資料館裏に移設されています。ここには台座のみが残っています。
次は左の道に進んでいきます。
この続きは”田野畑村から普代村黒崎”でお楽しみください。
(補足)
「田老町史近世資料集」収載の近世文書によれば、宮古代官所と野田代官所の文書のやり取りで文書を運ぶ伝馬夫の歩く経路がかなりの数記載しておる。それによれば田野畑から普代の間は、一里塚がある北山、黒崎回りではなく、田野畑の平波沢から
沼袋、鳥井、堀内という閉伊坂経由で沼袋から田代、卯子酉山、堀内を経由しているのがほとんどであり、浜街道の実際使用された経路は、これが主体ではないかと考えられます。