6,久慈市

1)久慈市南部、宇部町

 宇部は現在は久慈市にはいりますが、近世は野田通の御官所がおかれており、野田村と同じ行政区に入っていました。久慈は八戸南部領でした。前項の新山一里塚からY字路左の農道らしき道を往く旧街道は”ドエ坂”(調べても由来は不明)と呼ばれる小さな坂道となり林の中を通ります。その下り坂の途中には庚申塔が道標となっている石碑があり、そこを通過し池の縁を通り、谷地中に入ります。谷地中からは山沿いに旧道は舗装路となり北上していきます。川原屋敷地内に入った旧道は山田方面に行く道と谷筋沢筋に入って行く道に分かれ、谷沢筋に入る右手の右を往きます。しばらく沢沿いに林の中を往くと、小沢を渡る橋があり、そこから小袖方面に行く分かれ道に到達します。その左手に藪の前面に、南を向いた石碑(道標)が立っているのに気が付きます。そこから左手に行くと八日町(久慈)と刻まれていますが、その左手の道は藪化していてしっかり見ないとわからない状態になっています。その藪化した道が旧道になります。

 2021/11/27この街道をついに踏査しました。

A-1):ドエ坂、

一里塚から北上しY字路を左に農道を往くと、下り坂が現れ、そこに庚申塔・道標がひっそり立っています。この坂がドエ坂と呼ばれます。

B-1):川原屋敷、

同地内の林の中を北上してゆくが、旧道は林道とは別に沢に沿う部分にみられることが多い。

B-3):追分の道標、

右小袖、左八日町(久慈)とある。左の久慈への街道本道は、

薮になっています。宇部の立仙という人が建てたいくつかの道標の一つということです。

A-2):ドエ坂下、

ドエ坂を下りゆくと右手に用水池があり、この山の縁を往き、やがて谷地中から川原屋敷地内に入ります。

B-2)追分、

林道をさらに行くと、沢を渡ってすぐ、林の中に分岐する見逃しそうな旧道との分岐に石碑(道標)が立っている。右に行くと小袖、左の林の中の藪に入って行くと旧道が確認でき、久慈の八日町と道標に掘られている。


2)久慈市宇部町~長内町南部(1)

 県教委の調査報告書「浜街道」にもこの川原屋敷の道標から長内町までの街道の調査記録はありません。また地図上に比定された旧街道のルートもほぼ直線となっており、この部分の踏査などは行われていないのであろうと考えられました。浜街道に関しての様々な文献などを調べてもこのあたりの詳細な記録はみあたりません。

 そうした旧街道を、2021年11月27日道標からスタートし、三崎方面から東西に尾根を横切って往く林道を過ぎ、その尾根を北に下り、久慈湾にそそぐ沢筋あたりまで踏査を行いました。

 道標付近は水害でそばの小沢が氾濫したことで街道もガレ場と化しており、当初杉林をその沢の東岸に沿って徐々に緩い坂を登って行くところは旧道もかなり崩壊している所もあり倒木も多数ありましたが、道はなんとか通行可能でした。400m前後往くと小さな峠に達します。そのあたりから道の西側は落葉広葉樹の森で、すでにほぼ葉っぱは落ちており、とても明るい森の中を北上します。笹の叢化している所はほとんどなく、

簡単に通過して行ける藪程度が少々続くものの、また地図の通り一部旧道は、並行してゆく別のもう一つの旧道があったりしました。すれ違いを容易にするものなのでしょう。その後小さな標高136mのピークの西側を回り込み、さらに長根を北進。東西に走る林道の少し南で小さなのぼりとなり3~4曲がりして登ると、ダートの林道に交差しました。視界の中林道の北側に旧道の続きが見当たらないため林道の西側の少し下る部分に約30m程度移動すると、杉林の中を下って往く林道北側部分の旧道を認めました。林道はあるもののなかなか車のはいれないそうした旧道脇に、複数のバイクなどのゴミが投棄されているのはショックでした。その杉林の中を沢に向けて下って行きますが、一部その道の東側に旧道が並行して走っているのを認め、歩いている所が林道化されていると考えられました。

A-1):道標から杉林内の沢の東岸の旧道を登ります。沢側の道は水害のため結構崩壊している所もあります。ゆるゆる長根に向かって登って行きます。

B-1):東側が杉林、西側が広葉樹の森の境に旧道があり、藪化している部分もあるものの、道はよく残っています。上り下りのほとんどない長根道をしばらく北上します。

C-1):林道に交差する南側は緩い上り坂ですが、うねうね3曲がり程度の緩い九十九折れになっています。右から左に登って行きます。そこで左側(東)からの

林道に交差します。

A-2):沢筋を上り詰めると広葉樹の葉を落とした気持ちのいい長根につきます。左側は機械で削られた跡がありますが、右側に旧道跡が残っています。

B-2):よく残っている旧道、降り積もった落ち葉を踏みしてて往きます。

C-2):正面の林道にいったん旧道は交差し取り込まれますが、30mほどで右手の杉林の中へと続いており、ここから沢に沿って下って行きます。


3)久慈市宇部町~長内町南部(2)

 地図の最下部の東西に走る林道を北に通過し、杉林の中の林道化した、また藪化した道を下る。下り坂の下部では道の沢側に旧道が残存しているのを認めた。さらに少し行くと広葉樹の林に変化し北西に流れ下る沢に達します。その東岸には旧道跡は認めませんでした。

西岸をさらに行くと沢の西岸に沢に沿って往く、林道化した道が続いている。A)地点から北は2021/12/4に踏査したが、林道化した道を北上して行くと、B)のあたりでは、自然に興廃または、水が出た際に平坦な森が倒木などで興廃し、まったく道跡が途絶していた。C)あたりで林道が鋭角に曲がる時点まで、森の伐採が加わり、まったく道跡が失われていた。C)より北は旧道はほぼ林道化していたが、所々で地形に沿うように旧道らしき道跡がみられた。さらに北に行くと杉林が主となったが、その中にも旧道跡は認めなかった。

A-1):林道との交差点から杉林内を下りゆくと、右は林道化しているようで、また藪化も進んでいます。一部林道化した道の南側には並行するように旧道跡が残っています。

B):沢に沿って平坦な林の中を北上して行くと、V字型になった林道のあたりでは、沢筋が水害で崩壊し、山林伐採のためにさらにあたり一面が藪化し、道跡は不明となっている。林道らしき跡はかろうじて見える。

A-2):杉林内の沢が坂下で大きな沢に合流する場所にはその沢に沿って北上する林道化した道が残っています。その道と並行する沢に山側から流れ込む小沢は岸が水害で深く掘れているため、簡単に小沢を渡れなくなっています。

C):林道化した道の脇に旧道らしきものが時に認められるが、このあたりは旧道は林道化している所が多い。


4)長内町平澤

 A)で林道が逆V字状に合流する地点の約50北側の林道西側に、平澤の一里塚が西塚のみ良好な保存状態で存在している。最近周囲の木々が伐採され、塚の全景が非常に良好な状態で診ることができる状態となっている。一里塚の間を通過した旧道が林道の西側に存在している。さらに北に少し行くとまた林道が60度くらいの角度で合流するが、その交差点の西側にも旧道跡がみられる。そこを少し北に行くとさらに旧道跡は林道と並行するように徐々に西方向に山林に入って往くコースを取る。そこには良好な状態で旧街道があり小さな峠が少々切通しとなっているが、そこを北に越すと下り道となる。県教委の比定ルートは戦後に建設された逆U字型となっている市道❓林道となっている。旧道はC)地点で市道?を横切り、ほぼまっすぐ下って行く。そこは藪となっているが旧道跡は保存されている。その先で再び市道に達した旧道は平澤橋の沢の上流側で

(おそらく橋を)渡り北岸に渡ったと思われる。橋の西側の山際に少し旧道が残っている。残念ながらその北側では、大正の地図で示されるルート、または戦後の米軍航空写真に明瞭に写っている陸上競技場を斜めに横切っていくルート、いづれかは不明で前者は完全に藪化していて、踏査は不能の状態となっている。

A-1)平澤一里塚、

西塚のみが残るが、保存状態は良好です。手前側が旧道があった所です。県教委報告書「浜街道」によれば、この一里塚のごく近くの街道筋に石碑があることになっているが、周辺に石碑は認めなかった。

B)一里塚の北側の十字路の少し北、市道西側の林の中にうどう道となって旧道が続いています。市道が逆U字となる場所の首部分を横切るように小さな峠となっています。

D) 峠を下り、平澤橋付近を北に往く旧道は、そのあたりから姿はいったんみえなくなります。笹村草地を登り、久慈市の運動公園陸上競技場方向に向かう所で、草地に少し残る旧道が姿を現します。

A-2)市道砂利道の左側に凹んだ部分があり、そこが所々残存する旧道です。

C)小さな峠があり、少し切り通されていて、そこを越えると下り坂になります。近隣に住民は住んでいないため、ここの峠の名前を尋ねるすべはなかった。


5)長内町~久慈市街地南部

 県教委報告書「浜街道」にて、野田以北はつまびらかではない、とされるように、特に長内町から北の旧街道の経路は、私の調査過程でも、靄の中にある、といってよい。このためここに報告した経路は、現在まで認識された経路に過ぎない、と考えたい。今後いろいろ判明し、旧街道ルートが変わってくる可能性があることをまずお断りしたい。

 現在の運動公園付近を下長内に下る旧道は長内川を徒歩渡りし、柏崎あたりから八日町に至った。近世の久慈は街を形成していたのは八日町あたりに限局していた。久慈川や長内川など河川の集まる河口付近は荒れた川原、湿地などで到底町や集落を作ることはほとんど不可能であったと考えられる(久慈川に上、下橋が架橋されたのは天保元年とされる。下橋は八日町-長久寺の経路にかけられたとのこと)。しかし長久寺村などおそらく多少小高く、地盤がしっかりした所に小さな集落が形成されていた。八日町の現在の大神宮の北側の道を挟んで秋葉神社があり、そこに一里塚があったとの記録があり、街道の主道はここを通り、久慈川を渡り、吉田方面に向かったと考えられるが、そうした長久寺村を経由して八戸に向かう道の起点となる位置にある湊に向かう道も絵図に描かれているものがある。したがって現久慈市内の浜街道は複数のルートがあったと推測される。

 このような状況もあり、久慈市北側から侍濱方向に向かう旧道は、なかなか確定困難な状況にて、しばし調査終了までお時間をいただければ幸いです。結果を楽しみにしてください。