3,大槌町~両石

1)鯨峠から二ノ鯨峠~一ノ鯨峠(辺地ヶ沢=辺津ヶ沢峠)

メモ:地理院地図には辺津ヶ沢と記されていますが、大槌の人々は”辺地ヶ沢へじがさわ”と呼ぶことが多いようです。

   地名は土地土地で呼び馴らされているものを大事にしたいと思います。

 前項で織笠から鯨道を南下し、鯨峠に達しました。この道は萩野原と大槌の辺地ヶ沢(辺津ヶ沢)に一里塚が築造されており、”浜街道”の

本道には違いありません。しかし織笠から南下すると比較的難所は少ないものの、鯨峠を境に様相がガラッと変わります。鯨峠から浪板川の谷に下る所は、かなりの斜度で、一気に九十九折れで沢筋の谷そこまで下ります。地竹がかなりはびこっていますが、なんとか旧道は残っています。

下り終えた所が”水飲み場”になっており、鯨山がわからの水の豊富な沢に文化年間の石で作った水槽が残っております。そこを少し下ると沢筋の道とその少し東側の山の斜面にもう一つの道跡がみられます。道跡は沢の東岸縁を下ります。残っている道跡は後世に林道化しているかもしれません。鯨山のNTTの電波塔へのコンクリートの点検道路が西側に逆U字となり最も沢に接近する所が、”追所(おいっこどころ)”と呼ばれ、鯨峠越えで駄賃付けで馬を引いたりする人々の休憩所になっていたそうです。その手前50m程度のいったん道が沢の西側にでたところから、二の鯨坂に向かう、登坂にかかることになります。点検道路がヘアピンにカーブする所で旧道はいったん消滅しますが、すぐに追所から沢沿いに追分に下る旧道が残っています。浪板川を西岸にわたり、杉林の縁を西にカーブしていくとそこが大槌と浪板の追分になっていて、昔ここに追分の道標があったそうですが、いつか不明ですが持ち去られたとのことです。

 そこを沢沿いに大槌方向に上ると、そこはハダ沢に至るまでは水害で旧道はガレ場と化しています。ハダ沢の少し上はちょっと広くなっていて、昔は駄賃付けの人たちが馬の沓を切って交換した場所と伝わります。沢の奥で道はV字となって折り返すように急な坂を登り、そこが”二ノ鯨坂(峠)”で峠は切通してあります。ここからは鯨峠がよく見えます。二ノ鯨峠からは比較的平坦な斜面の道を”一ノ鯨坂(峠)=辺地ヶ沢峠”に向かいますが、登り口となっている沢で道が崩壊しており、斜面を降りるように沢を渡って、急坂を100mほど登ると、そこが一ノ鯨峠=辺地ヶ沢峠で、切通しとなっています。そこからは大槌までは、辺地ヶ沢一里塚を通り、下るだけになります。

 このように鯨峠から大槌の辺地ヶ沢、さらに大槌に下る際、鯨峠、二の鯨、一の鯨(辺地ヶ沢峠・辺津ヶ沢峠)と3つの険しい峠を越えなければならず、難所のため、徐々に海際の比較的小規模な坂の連続する四十八坂を利用する”四十八坂道”が主街道として利用されるようになってゆきます。

 鯨峠から辺地ヶ沢峠(一の鯨坂・峠)間は厳しい道筋ですが、つけられた地名のように、馬や牛を使ったダンコ付けは盛んにこの道を使っており、

昭和初期あたりまでは盛んに使われていたようです。

 

(この項は、大槌在住の徳田健治氏の資料を参考とさせていただきました。感謝申し上げます。)

A-1)鯨峠南側:北側と違って峠の南側は急斜面となっています。さらに現在は写真のように地竹で覆われ始めています。一番上のV字の所が峠です。

B-1)鯨峠南側登り口直下の水飲み場:小沢が常に流れており、よくみると枯葉の水の流れの中に文化年間に石で作られた水槽が設置されています。このあたりを”サイノカミ”と呼ぶそうです。

C)追所(おいっこどころ)下:

この右手上に村道が近接しヘアピンカーブとなっていますが、かつてここは駄賃付けの人々が休憩場所にしていた所とのことです。この100mほどしたが”追分”で二ノ鯨、一ノ鯨(辺地ヶ沢峠)を経て大槌、と浪板への別れです。かつては道標があったといいます。

E-1)左から沢沿いに来る登り道が、V字型に右手の急坂で二ノ鯨に登って行きます。かなりの急坂です。

E-3)二ノ鯨から一ノ鯨(辺地ヶ沢峠)に向かう道は緩やかな傾斜で歩きやすい道になっています。

F-2)一ノ鯨坂峠(辺地ヶ沢峠):急坂を登りつつ切通してある峠を臨みます。多少九十九折れのカーブをつけてあります。

A-2)鯨峠南坂途中:

峠からの下りで中間あたりから坂下を望みます。ご覧のように沢に向かって急坂を九十九折れになって結構な急坂です。(写真ではなかなかその急勾配が実感できないかもしれません)

B-2)サイノカミの下側にある旧道とその左側一段上にみられる側道と思われる道跡。

D)追分から二ノ鯨に向かって道を登りますが、続いた台風などの水害で道は完全にガレ場と化しています。昔なら道普請で整備されるのでしょうが、現在それを行う人々はおりません。

E-2)切通しとなっている二ノ鯨坂峠から北の鯨峠を臨みます。二ノ鯨は尾根の鞍部ではなく、その西側の少し高い部分を掘削しています。

F-1)一ノ鯨峠下の沢の傍の登りにかかる道は完全に崩壊して道跡がほとんど残っておりません。左下の沢にいったん下りて辺地ヶ沢峠に這い登ります。

F-3)一ノ鯨坂峠(辺地ヶ沢峠):峠の真ん中に立っています。今年の春に一度南から到達しておりますが。この峠の北も急坂、南側も200mほど行くと道が消えかけた九十九折れの道、急坂です。


2)辺地ヶ沢(=辺津ヶ沢)

 辺地ヶ沢峠(辺津ヶ沢峠=一ノ鯨坂峠)を南に下ると急坂の九十九折れの坂を下ります。そこは道跡が崩れた土砂でかなり埋没されていたり、旧道が消えかかっています。その坂を下り切り、沢筋をまっすぐに下って往くと東から合流する山寺沢の広い谷筋が見えてきて。同沢を渡るとまもなく辺地ヶ沢の一里塚が東西一対良好に残っています。今年の山火事で塚周囲の木は焼けてしまいました。しかし塚は無事です。

 当然旧道は塚の間を通るが、辺地ヶ沢を挟んで西側に林道があり、塚の100m程度上の林道わきに、山の神の石碑が立っています。もとは二ノ鯨の北側のハダの沢にあったものを移設したものとのことです。一里塚から沢の東側に旧道が残っている所が多くみられ、旧道を大槌に向けて下って行きます。鯨峠から3つの峠を越し、ここからは大槌まで下るのみとなります。

A-1)辺地ヶ沢峠:

前項にもあげた、切り通された峠です。“一ノ鯨坂・峠"とも呼ばれます。(各地の峠頂上も切り通されていることがほとんどです)

A-3)峠南側斜面の九十九折れ下り坂。

B-2)辺津ヶ沢一里塚:

下から見ると左の西塚、反対の東塚はよく保存されています。

たまたまこの周辺の山火事があった後でここを通ったため塚を含め黒くなっています。塚の間が旧街道です。

A-2)辺地ヶ沢峠南側の九十九折れの下りです。ほぼ廃道となっており、誰も通らないためか、急斜面を斜行しつつ下る道が土砂で埋まり、斜面と化してきています。

保存が必要と思います。

B-1)辺地ヶ沢の西側林道わきに立つ山ノ神の石碑。

B-3)林道が沢の西側に存在していますが、旧道は主に沢の東側に残っています。


3)大槌町中心部

 本道は辺地ヶ沢を下り、現在の三陸自動車道大槌インター北から西を回るように、金沢に往く県道に合流し、大槌川沿いに下り、渡河して向川原に入ります。一方四十八坂からの脇街道は、吉里吉里坂を抜け、安渡に下りてきて、大槌川を少し遡り、古にあった安渡橋を渡り向川原で合流します。向川原を南下し“歳の鼻”で八日町に入り四日町と大槌通御官所前を通り、西に向かいます。現在の古廟橋ではなく、小鎚川にぶつかると左岸を少し南に往き、そこで対岸の花輪田に渡り石碑群のあたりを古廟坂にとりつきます。

 大槌街道(和山街道)は四日町で小鎚川にぶつかると右折し小鎚川左岸を上流に向かいます。

A)旧向川原(末広町)、

津波被災前は人家が密集していたが、現状はこのような状況。しかし道筋は昔と同じです。ここから右側に斜めに道は続きます。

B-2)大槌通御官所跡、

信号の右側が盛岡藩大槌通御官所跡です。

D-1)向こうに見える大槌の町から茂みが見える小鎚川をわたり手前の道につながってくる旧道が古にはありましたが、この筋の旧道は消滅しています。ここの右手に花輪田の石碑群があります。

B-1)向川原と八日町の角から八日町、四日町方向を望みます。

津波で立ち並んでいた街並みは消滅し、道もまっすぐになりましたが概ね昔の街道と同じ所に道が再建されています。正面やや左手の山に古廟坂があります。

C)小鎚神社です。

当初神社は新山にあったとされますが、一の渡、臼澤と2回にわたり場所が変わり、そのたびに大槌に近づき、現在の位置に遷座したとのことです。

D-2)花輪田の石碑群


4)古廟坂(御廟坂、聞坂、菊坂)

 現在の古廟坂は、路程記では”聞坂、菊坂”と呼ばれており、”御廟坂”と呼ぶ人もある、とのことを記録しています。どのような理由か今は

古廟坂と呼ばれるようになったもののようです。大槌から小槌川を渡ると、坂にかかります。今の古廟坂トンネル(R45)の北入り口の真上あたりから旧道が残っており、真南に向かう沢沿いに坂の頂上に向かって登って行きます。中途あたりから胸突き八丁の厳しい坂となり、蛇行しつつ登って行きます。頂上は大きな岩からなっており、そこを切通して南の下りにかかり、そこも急坂で蛇行しつつ下ります。数えると頂上の北側は十五曲、南側は十二曲ありました。九十九折れを下り終わった所に、双子の大杉があり(一本は焼けてしまっている)、その根の間の洞から

昔は水が湧いていて、石造りの水槽があって水場・休憩場所となっていて、腰かけるための石が今でもおいてあり、自然石に彫られた不動明王が佇んでいます。そこからは旧道はほぼまっすぐ三鉄のトンネル方向に向かって下り、線路の東側に舗装されている道となります。

A-1)旧道は小鎚川を渡り、花輪田の古碑群の傍を通り、左手下からトンネル真上、右手の杉林へと続く。杉林の所から旧道は残っている。

B-1)坂の頂上一帯は岩から成り立っているが、そこを岩を砕き、切り通されている。牧庵鞭牛和尚の業績の一つと言われている。切通し東上にあった大きな古松が枯れて切通しに倒れていた。(北側から南を望む)

B-3)二本杉の水場、一本は焼けてしまっていた。その間の洞からかつては水が湧いて、また長い石が座って休息できるようになっていて、旅人の休憩所となっていたという。洞の左側の小さな石に不動明王が彫られている。石の水槽は確認できなかった。

A-2)足跡でかろうじて旧道が判別できるが、右下から左真ん中へと少し上がり、そこから右上方向へと九十九折れで峠にあがって往く。北坂の中途からだけで十三曲あった。

B2)切通しを抜けると坂は東方向に下り、九十九折れで急坂を南に下って往く。南の坂は水場まで十二曲あった。現在この九十九折れは倒木が多数道を塞いでいて、非常に歩行困難な状態となっている。

B-4)水場から南に下る旧道はまっすぐに三鉄トンネル方向に残り、線路でいったん消滅する。


5)片岸・鵜住居

 古廟坂を片岸側に下ると、平地は津波で住宅地、道路とも完全に損壊したため、その復旧に際し、残存していた旧道などもほぼ消滅してしまいました。このため、地図には津波前の地図を参考に、旧道を現在の地図に書き入れるのみとなった。写真はそうした昔旧道があったであろう場所の現状を記録するのみとなっていることはご理解お願いいたします。長い歴史の中ではこのような事態も生じうるので、旧街道はそのもともとの常態が維持されている内に記録に保存しておきたいものです。

A-1)古廟坂を降りて来た旧道は青い道路標識のあたりから手前にあったと言います。右手が海になり、古はこのあたりから海側は湿地などがあり、左手の山に沿って南下していきました。

B)山沿いを往く街道に沿うように、左手に佇む石碑のように、ぽつぽつと旧道に沿うように石碑が残っています。向こうには堤防が望まれます。

C-2)鵜住居川を南に渡り鵜住居の町を往きますが、被災前の国道45号線と現在の国道はほぼ一致しており、ここを街並みに沿い両石に向かいます。

A-2)稲荷神社の石碑群の前を旧道は左手=南方向にこのような山の縁をたどるように向かいます。

C-1)眼前の鵜住居川の渡河点は、草むらで見えませんが、左手の片岸から右手の鵜住居への渡りがありました。


6)恋の峠、両石

 鵜住居地内の旧道は、3.11の津波前はほぼ古の通りの道筋となっていましたが、津波後区画整理が進み、道は直線化され、旧道とは少し経路が違っています。鵜住居駅から南側は全体として西の山側によった所を南下し、長内川を渡る場所も、50mほど現在の国道の橋から西によっていました。旧道の道筋は住宅地の中を通っていたことになります。そこから国道を斜めに横切り、派出所がある方の道が旧道で、そこを恋の峠に向けて少しうねうねしつつ行きます。そのあたりに一里塚があったとされますが、その痕跡は一切ありません。恋の峠は国道と鉄道建設のため

峠筋は消滅してしまいました。両石側に国道が西側に大きくカーブをするあたりの東側の下に旧道跡が現れます。そのあたりには石碑がおそらく移動ないままに残っています。両石地内の旧道は、津波の前の街並みの中の国道がほぼそれであったと考えられますが、津波でほぼすべての街並みが消滅した後、街のあった所は埋め立てされて、旧道跡は完全に消滅しました。かろうじて南の端で海べりに出る直前、“壇ノ鼻”と言われる昔の墓石が集められた所から両石坂が南西の山に登って行くところから旧道が姿を現してくれます。

A-1)長内川と旧道跡。

津波前はここに橋があり、橋が架かる前には、橋とほぼ同じ場所を旧道が通っていました。ここを南に過ぎ、国道45号線を斜めに横切り恋の峠に向かいます。

B)国道を斜めに横切ると旧道が舗装されて残っています。このあたりには一里塚があったといわれています。向こう側の山の谷間が恋の峠です。

C-2)恋の峠両石側をみますが、両石は津波でほぼ消滅し、10m程度の盛り土をして、その上に建物が経ちましたので、古の旧道などはこの地面の下ということになります。

A-2)長内川の渡りの西側の山が川に張り出した所に小さな石祠と石碑群があります。

C-1)恋の峠両石側。

恋の峠は、浜街道筋の峠としてはもっとも高低差が低い峠とされます。峠は鉄道と国道で道筋は失われましたが、両石への折口には旧道が残っています。その降り口には石碑が数基存在しています。


 壇ノ鼻の脇の坂を登り、線路を横切り山の端にとりつくと、山の腰を往く旧道が残っています。

国道の上の方の山の緩やかな斜面を南下しますが、深沢という奥のやや深い沢を北の上流に回り込み水海のトンネルの上に到達します。昔はそこから水海に下って往く道があったはずですが、トンネルで旧道はそこの切通しで寸断消滅します。その南側に20m程度、トンネル真上にあたる所にはなにも刻まれていない墓石が並んで立っています。これは伊達勢に責められて落城した釜石の狐崎の舘から逃れようとした葛西氏の一族がここで亡くなった、とのことから地元の方が建てた墓石とのことです。道はありませんが、国道を横切り昔の水海の部落に下ることになります。

D-1)両石側の両石坂登り口。

向こうに見える国道45号線から坂は始まります。津波前はこの坂の下には両石の街並みがありました。元の街並みの上に10m程度の土が盛られています。

D-3)途中には小さな尾根を切通したところもみられ、比較的保存状態は良好です。

D-5)水海への降り口の切通し。水海トンネルの山手側のほぼ真上にあり、この切通しの向こうは、国道建設時に削除され、ここが行き止まりとなります。この切通しの左側の上に、

6基の葛西氏の墓とされる文字の無い、”葛西塚”石碑群が並んでいます。

D-2)坂を登り、三陸鉄道を横切り森の入り口になると、その斜面の上に古碑があり、旧道はその下の山の斜面をいきます。

D-4)深沢の最深部。

見える小沢が深沢で、ここを越、水海に向かいます。昔、言い伝えで、ここの水は毒水で、飲んではいけない、とされていましたが、根拠はありません。