6,陸前高田市~松ノ坂峠まで

1)大船渡市丸森から通岡峠西側

 下船渡の海に沿った街道が丸森の境に至ると、鉄道(今はBRT)、国道が狭い所に集中する場所を通過する。その50-60m坂の上に石碑群があるが、旧道との距離間に違和感があり、この部分の街道の道筋は再検討する必要があるように思える。そこを通過した旧道は国道の海側を通って

丸森の一里塚に至ったという。しかしここの街道は鉄道工事などで消滅し、最近のBRT工事で丸森一里塚も残存部を削除されて消滅した。一里塚を通過した旧道は現在の市道に合流し、わずかに行くと市道の西側の住宅の合間を往く未舗装路となって丸森茶屋跡の山側を通ってゆくがこの部分は、次項(1a))を参照してください。

 船河原地内に入って船河原川に沿うように西へと向かい谷合を往くが、自動車道工事で通岡峠東の部分では旧道は消滅した。

国道45号線が通岡峠の登りにかかる最初の大きなカーブの部分を東から西に横切った旧道は、峠への比較的平坦な緩やかなのぼりを徐々に登って行く。県教委は国道南部分を峠に向かい、峠を越すように否定しているが、その部分には旧国道45号の痕跡があるのみで、旧道跡は認めなかった。旧道の峠部分はリクレーション施設が建設されるときにすべて失われた。峠西側で一部林道化し沢沿いに西に下って往く杉林内の旧道が残っている。沢の南を主に道は往く。箱根山に通じる市道を横切るあたりから旧道は多少藪化し道の端は崩れたりしているが、道は残っており、国道下を通過し、佐野の一里塚に向かう。県教委比定のその部分の沢の北側の道は、旧国道45号線である。

A)ガードレール左下のBRTの道路の両側に丸森の一里塚があったが、この造成で撤去され、今はない。40kmの標識の右遠方にまっすぐみえるのが旧街道である。

B-2)峠はリクレーション施設の建設で旧道は消滅しているが、峠を陸前高田市側に越えて下ると、林道化した旧道が残っており、沢に沿って下って往く。

B-1)1a)で示した自動車道で消滅した船河原から西行してくる旧道は、通岡峠にかかる国道45号線がぐるっと回り坂を登って行くところを国道をまっすぐ突っ切って峠に登って行く。国道の西側に旧道は認めない。

C)沢沿いに沿うように蛇行しつつ下る旧道。


1a)(上図)丸森から船河原の旧街道詳細

 この部分の旧街道の記録は、県教委の歴史の道報告書「浜街道」には記述がありません。

 丸森の一里塚を通過した旧道は船河原に行く市道を斜めに横切って市道山手の住宅地の間をうねうね往く砂利道となる。少し行くと新しくできた末崎方面への県道下を通り、さらに行くと、市道上にあった”丸森茶屋跡”の裏(山側)のそばを通過する。民家の裏道、といった感じの道である。さらに少しいくと飛定地山に行く道が分岐した、という十文字に達する。そこは現在山側への分岐は竹藪化しているが、その分岐に石碑群が存在し、街道であったことを控えめにアピールしている。その先は民家の畑の土手状となっているが道は残っており、そこを進むと右にカーブしつつ林の中の下り道となり、船河原に達する。細浦に行く市道がそばを通過しているが、市道は明治30年代に建設されたもので、近世には存在していなかったものである。そこに石碑がある。坂を下った旧道はそのまま西に向かう住宅内の狭い道を往く。県道下をくぐるが、そのあたりにあった石碑群が、県道脇に移設されている。

 これが旧街道であったことは、県の歴史の道調査報告では一切記述がないが、すでに平山憲治氏が調査し指摘している。

A-1)丸森から左手下に一里塚跡をみる。さらにそこから右手の2車線の明治期以降に建設された県道、その右手に細い道が上り坂となって分岐するのが旧街道である。

A-3)旧道の丸森茶屋跡付近です。

C-1)さらに船河原サイドに小道を往くと大船渡湾がよく見えます。ここから下りながらカーブし船河原地内に旧道は入ります。

C-3)カーブしつつ林をでた旧道は船河原の北側の高台の道となり、通岡峠に向かいます。

その途中に移設されたものの六地蔵、石碑などがあります。

A-2)A-1)の街道跡の坂道の上から一里塚方向を振りかえります。

B)丸森茶屋跡の後ろを過ぎて、南進すると海側からくる道が、竹藪と化したが飛定地山に

旧道を横切り上がって往く道があった十文字の角に石碑群があります。旧道は車の間に土手際の斜面の草地として残っています。

C-2)カーブを下って往くと100mほど林内の道となります。ここは旧道の面影がよく残っています。

C-4)旧道にあった石碑や六地蔵が県道造成に伴いその縁に

移転されています。


2)米崎から今泉

 通岡峠を下ってきた旧道は、高畑で国道45号線の下を佐野に入ります。そこには旧道脇に石碑群があり、そこを過ぎると佐野の一里塚の西塚が残っている。旧道はうねうねしつつ南西に向かい米崎小学校の裏側にでて、そこから北に分かれる道の追分に碑が立っています。ここからは旧家の金家前を通り、浜田川の東岸に沿って長砂(ながすか)に向かい、下宿付近で丘の南端に至ると西に折れて高田町に往く。川原川にぶつかる前の川原には一里塚があったとされます。そこから旧道は荒町、そして大町を通り、五本松の石碑群脇を通り、3.11の津波で行方不明となった、大石沖の追分碑から、津波前にもそのルートが不明であった田畑の中を今泉大橋に向かいます。


3)今泉から長部

4)長部から松ノ坂峠(宮城県境)

 月山坂を下り長部地内を南下する街道は長部川を渡ると国道45号線の西側に分岐する。そこの道は舗装はされているものの旧道のうねうね往く往時の姿をよく残している。旧道脇には金比羅大権現の石碑が迎えてくれる。この石碑は屋根がかかり近隣の住民が掃除など、今もお世話をしている。そこを丘の間を蛇行しつつ南下して行くと、松ノ坂峠へ登りにかかる。現在その登り口の所は自動車道で分断され、そこにあった”水上の道標”は移設されている。自動車道を西に越往くと、街道の続きも不明となっているが、一部沢筋をたどって登って行くと街道に合流する。

そこから峠には、林道化した旧道が良好に残っており、杉林の中をうねうね峠に上る。そのあたりから旧道は複数存在し峠越えのルートもいくつかあったとされるが、判然としなかった。松ノ坂峠につくと峠道の南側には屋根を架けられて大事にされていると思われる地蔵尊が今も旅人を見守るように、寂しげに佇んで迎えてくれる。そこが岩手県と宮城県の境でもあるが、昔は県境の南北はともに仙台領であった。峠に立って気仙沼側を見渡すと、山並みが続き、峠の上り下りが続いてゆくことを示していた。

A):月山坂下り、

遠くに見える国道のカーブした坂、旧道はその右手に残っていますが、そこから下り、右に見える国道から手前の旧道に南下してきます。そこには金比羅大権現の石碑が佇んでいます。

B-2):B-1)の道を往くと移設された”水上の道標”が道端にあります。しかし移設されたためこの地点は追分とはなっていません。

C-2):松ノ坂峠下、

杉林内の街道を登って行くとそこが宮城県境である松ノ坂峠となります。もう少しです。

D-2):松ノ坂の地蔵尊、

峠を越える旅人を昔は無数に見守ってくれていたでしょう。

今は稀にしか”旅人”はきませんが、そこに神仏がおられる感覚が濃く感じられます。

B-1):自動車道東側の旧道、

向こうの山並みが松ノ坂峠のある所になります。山並みの手前の森のさらに手前で自動車道が旧道を切断してしまいました。

C-1):松ノ坂峠への登り口、

自動車道を西に渡ると、この道状のものが目に入りますが、実際の旧道は、左手上の松林内にあります。このへこみを100mほど行くと旧道と合流し、峠への道となります。

D-1)松ノ坂峠、

この向こうが宮城県気仙沼市となります。江戸期は同じ仙台藩であり、国境ではありませんでした。峠を下り又綱木坂を越え気仙沼鹿折に入ります。


  一部、未調査の所は残っておりますが、八戸南部藩領久慈市から、盛岡番部藩領の三閉伊を通り、仙台伊達藩領に入り、現在の県境である、

陸前高田市と気仙沼市境の松ノ坂峠で、県内”浜街道”の旅を終えることとなります。

 県北の久慈市北部から洋野町は調査・踏査に至っておらず、近々アップできればと思っております。

 

閲覧ありがとうございました。

 

 地元の歴史の一端を知っていただき、そこに暮らす皆様、特にこれから地元を担って往く若い方々の、精神的によって立つところのアイデンティティーを育てることに寄与できればこれにすぐるものはありません。