4,鳥谷坂から石塚峠

1)鳥谷坂から釜石市街地

 両石坂を下り、水海川をわたると、明治の津波までは街道の両側に水海の集落が並んでいたとのことです。するとすぐに鳥谷坂の北側登り口になりますが、そこには現在釜石市郷土資料館に保存されている道標がありました。坂をうねうね九十九折れを山の長根まで一気に上がって往きます。長根に到達すると、あまり幅のない、山の稜線を南下します。高低差はほとんどない緩やかな長根筋です。時に幅が1~1.5mほどの所謂”馬の背”状の部分が数か所みられます。さらによく残る旧道を南下して、見上げ森の頂上直下で休み場に至ります。そこはちょうど三角形の広場上になっており、昔の旅人もここで一休みしたと言います。そこからは釜石湾が一望に眺められ、東の方向には現在木立が成長して海は見えませんが、古には外海、三貫島が一望であったようです。そこには天明の飢饉で亡くなった大勢の人々の供養のための石像が建てられています。太平洋戦争末期には、見上げ森の頂上に、監視哨が設けられていて、毎日麓から食事を運んだとのことです。見上げ森とはよく名付けたもので、休み場から眺めれば、文字通り”見上げる”頂上がそびえています。

 休み場からくの字に下りを釜石方向に降りてゆくと、また東に折れ曲がり、最後の”馬の背”の長根を越えます。そこからは徐々に長根の南側の斜面に作られた旧道はゆっくり右の南方向に孤を描くように下って往きます。下りの左手の尾根が切れたあたりに来ると、そこから鏡に分かれる道があります。ジグザグに少し下ると銭函沢方向に下る道があるという所に達し、そこをまた下ると、左手に沢村(現在の浜町)が見えてきます。そこを三曲がりほどくだると、浜町の尾崎神社参道にぶつかります。浜町が見える尾根はまっすぐ往くと、狐崎城址に続いています。

A-1)鳥谷坂北口からなにもなくなった水海、さらにその向こうの両石坂登り口を望みます(トンネル左手が登り口であった)。

B-1)長根をその尾根に沿って長軸方向に削平して造成された形状が鳥谷坂の長根筋の道の特徴で多くみられます。

C-1)鳥谷坂頂上”休み場”、

見上げ峠。

釜石湾と、今は森に遮られるが、昔は東に太平洋を一望のもととした所で、背後を見上げると、見上げ森がどんと構えています。

D)小さな九十九折れ道が南に下る。ここから鏡に行く道が分かれ往く。

E-2)稲荷社が街道脇にあり、その周囲に石碑群がみられます。石碑の左手に、もともと街道であったと考えられる道跡が残っています。

F-2) 市街地中心部の古からの道が拡張された市道を只越、大町と進みます。

付録:水海の

鳥谷坂口にあったとされ、現在は釜石郷土資料館に保存されている道標(追分碑)。左ハ釜石道、となっているのが鳥谷坂方面になります。

A-2)鳥谷坂水海側の登りの坂を、上から見下ろす。道が九十九折れで掘り下げられているのがわかります。

B-2)長根を縦に掘り込んだ道と、こうした馬の背の尾根を数か所ならして人と牛馬がなんとか通れ状態にしているのも鳥谷坂の特徴となっています。

C-2)休み場から見上げ森を見上げる山梨の木を背に、一心良念の天明八年の一字一石供養碑が佇んでいる。天明の大飢饉の餓死者を弔うものとのことです。

E-1)”沢村”が足下に見えるところまで来ると、皆伐された場所となるが、この場所は現在に至る道筋とは別のルートがあり、そこには石碑が立っている。新たな今に至る道筋にも途中お社と石碑群があり、その前を下って往きます。

F-1)浜町、鳥谷坂を降りると古に”沢村”といった、現在の浜町三丁目を魚市場方向に下り、西方向に市街地を行きます。

G)大渡川 現在の甲子川を

 ほぼ昔から変わらぬ場所で橋を渡り、渡ると嬉石に向かって南下します。


2)嬉石、女坂から平田(閉伊田)坂

A-1)大渡川に沿って松原町法眼面に南下します。おそらくこの道は川原で、より写真道下の山沿いに旧道はあったと推測されます。

A-3)嬉石長を女坂方向に徐々に登り坂にかかる所に石碑群、またポツポツと石碑が旧道沿いに残っています。

B-2)石の証文、

女坂の途中に嬉石村の歴史にとって非常に重要な碑があります。このそばを坂は南に向かいます。

C-1)女坂南側(平田側)、

こうした掘割状の道も旧道各地で鍬などの手作業で普通に作られています。ここを平田に下ります。

A-2)松原町入り口付近の石碑群。

 松原町の川筋からの町入り口付近には山が来たに出張った所、東西双方に石碑群があり、旧道はここの傍を通っていたと思われます。

B-1)女坂登り口、

標柱から左に上る。そのように見えず、まっすぐ沢筋をたどり

一回迷ってしまった。

B-3)女坂頂上、

峠直下で道は二筋となり、すれ違いを容易にしています。

こうした道の作りは旧道でたびたびお目にかかります。

C-2)女坂より平田を望む。

この右手に森林伐採から保護するため女坂一里塚はブルーシートで覆われていました。


3)石塚峠(盛岡南部領)

 女坂を南に下り、上平田川縁まで崖の縁をくだる。坂が平地に至った地点の石碑群から古は海岸であった所を下平田川河口まで東行し、川沿いの旧道を上流に登って行きます。途中川沿いに道標があります。平田公園東側で砂防ダムなどの建設により旧道は消滅し、その南側に作られた石切り場内でも旧道は完全に消滅してしまいました。石切り場の南端の山際から、沢沿いに上る旧道が残っており、ゆっくりそしてほぼまっすぐ坂を登ります。峠の下方に至り、ようやく九十九折れとなりますが、曲がりは多くなく八曲ほどで石塚峠頂上=盛岡南部藩と仙台伊達藩領の藩境に到着です。そこは切通されて風の吹き抜ける場所となっています。

 現在危険な石切り場を通らないように、そこの部分は西側の平田公園側から一つ山を越す道が設定され、潮風トレイルともなっています。しかしこの道は結構キツイ角度を約130mほど登って一旦下りますが、この上り下りはいかがなものなのでしょうか。

A-1)平田地内下平田川東岸の街道そばに立つ追分碑。”右はせんだい”もともと設置されていた場所は不明である。

B)石塚峠の登り口は現在石切り場となり、旧道は消滅している。

C-2)石塚峠の下は、勾配がきつくなるため、峠の南直下ほどではないものの、九十九折れの道となり八曲で峠に達する。

A-2)旧道を石塚峠に向かう、

”平田坂”の途中です。

C-1)石切り場から旧道は残っており、登り始めはほぼまっすぐに峠に向かう。

C-3)石塚峠南側、ここは風の通り道となっていて、春でもかなり寒いです。ここが盛岡南部藩と仙台伊達藩との藩境で、嘉永の昔三閉伊一揆の四千人以上がここと、尾根続きの篠倉山の間道の峠を仙台領に越えました。


 さて、ついに浜街道は藩境を越えて、仙台伊達領に入ります。