2、田老から小本

1)田老中心部

 古田から栃木坂を下り、田老の中心部に下ってくると、現在の水産加工団地を通り、田老川をおそらく木橋などで渡り大平地内に入ります。

里程からすれば、江戸時代初期にはこのあたりに一里塚があったと推定されますが、江戸時代後期の三閉伊日記、三閉伊路程記にはその記述はみれません。さらに神田川を渡ると旧道は国道と県道の県道よりのあたりにあり、津波前に市街地の南端がはじまったあたりに右にカーブし、

昔の街並みの国道が走っていた近くを北上します。正確にどこに旧道が走っていたかは不明ですが、昭和8年の三陸大津波後に田老内の道跡が残存している航空写真から旧道跡を推定した。明治29年の三陸大津波後も道跡はほぼ変化していないと考えられたので、かなり精度は高いと考えています。北側では現在の道の駅あたりを北上し、長内川の乙部地内で、石碑群があるあたりの近くで北岸にわたります。

A)街道が神田川を北に渡ると、日枝神社の参道とその袂に

石碑があります。日枝神社は

三陸鉄道で参道が寸断され、三鉄の西側に移っております。この脇を旧道は北に往きます。

B)常運寺、

旧道の西側にある常運寺には

多くの石碑があります。


2)田老乙部から新田平

 旧田老町の市街地は、近世から近代に何回も津波で町や道が再編され、旧街道がどの時代にどこを通っていたか定かでありません。市街地の旧街道は確定要素がなく、少し旧道比定ルートにはずれがあると考えられます。

 田老村と接する乙部村は、北で小堀内において攝待村と隣接します。その間乙部の掘丁から国道45号線を越え”下舘坂”を”越田こえた”に上り、新田平方面から国道45号線の東西を長畑に向かいますが、自動車道のインター付近で旧街道は工事のため消滅しています。

  長内川の南岸に石碑群があり(A)、ここから対岸の乙部、掘丁(ほっちょう)に渡しがあったといいます。そこを少し行くと国道45号線の歩道橋があり、それを渡ると旧街道に直結しています(B, C)。羊腸の坂をあがりますがよく旧道は残っています(D)。この下舘坂を登りきると左(西側)に向かいますが100m程度で市の指定文化財になっている道標があり(E)、道なりではなくそこに建っている二軒の家の間が旧街道でそこを抜けていきます(F)(そこを歩くときには住民の方の許可をとりましょう)。抜けると国道45号線から真崎に行く新しい道にでますが、旧道はそれに沿うように、所々カーブなどに姿をみせつつ西に向かいます。国道45号線にぶつかる掘り下げられたところの北側の開削された崖の上に旧道が草生して残っています(G, H)。

 長内川を渡り川沿いに西に行くと、もう一つの浜街道があります。現在の砂防ダムの少し上流北側の長根が飛び出している場所から、掘割道があり、九曲して登って行くと国道に達します。国道で切り通された崖の上の長根に旧道が残っていて、国道東側で越田から街道と合流します。

A) 田老町内の旧街道は、津波災害などが何回もあったことでたびたびルートは変更されたと言われ、確定的なルートを示せませんでした。しかし長内川の南岸に石碑群があり、ここから乙部に川を渡ったと言われています。

C) 歩道橋をわたるとそこが旧街道(下舘坂:現在はこの名前は使われていないようです)となります。(2023年3月現在歩道橋は解体されましたが、横断歩道がその場所にあります)

E) 100m程度来ると右の写真の白い標柱のところに、道標が立っています。右は小湊(真崎)、左はきたみち(北方向への街道)を示します。江戸時代後期の嘉永年間に建立されたものです。

G) その道を国道45号線に向かって、国道の100m程度東側の斜面の上に旧道が草生して残ります。

I)掘丁から長内川沿いに上流に来て、現在の砂防ダムの少し上流の長根に旧道が残っており、これを九曲がりで国道に達する。浜街道の脇道と考えられる。

B) 川をわたり掘丁(ホッチョウ)に入ります。国道45号線にかかる歩道橋を北にわたるとそこが越田(こえた)にあがる”下舘坂”となります。九十九折れをあがっていきます。

D)下舘坂の斜面を斜めに上がり、2~3曲がりで越田にでます。坂の上がり切った所には石碑群があります。そして西に曲がります。

F) 標柱の左の細い道が街道です。

そこを進むと国道45号線から真崎に分かれる道に沿って西に行きます。ところどころ旧道の痕跡が残っています。

H):旧道は西に向かうと国道45号線で分断され、台風で崩れた対岸の切通し斜面上で再び姿を現します(ブルーシートが見えるところ)。(崖下が国道45号線)

J) 国道で切り通された崖の上にI)から続く長根道が残っている。そこから越田からの街道と合流し北に向かう。


3)越田から塚ノ峠

  越田から三陸自動車道の田老北インターまでは、国道45号線西側を旧街道は北上します。インター工事で消滅した旧街道は田老鉱山社宅跡付近から国道に沿うように長畑まで北上しますが、国道45号線の東側の谷筋は湿地で沼もあり、とても街道が通るとは思えない地勢です。しかし国道の西側も道跡は不明な所が大部分で、長畑の南側で国道西の一段高い場所に街道跡が残存し西の山沿いに塚の峠に至ります。

 越田から道標をすぎ、小湊(真崎)への道を国道45号線に向かう。前の写真のように国道と合流する道の北側の上に存在し、国道で削除された旧街道の続きがA)の写真です。これは国道の東側ですが、そこから西に向かうとB)のように切通しが現れます。そこを過ぎると2つの石碑が寂しく佇んでいるのに出会いますC)。それを過ぎると旧街道は林道化されており、三陸自動車道のトンネル、田老北インターの所にでますD)。インター西側に接するように、北側の杉林に入ると旧道がその林の中に残っています。小高い小丘の西側で現国道で消滅しますF)。その辺りから旧道は国道に重なって消滅するところが多いと考えられますE)。北上すると長畑まで国道45号線にほぼ旧街道は重なっていると思われます。国道の東側の谷筋はほぼ湿地か沼になっており、東側に道は作れないと考えられます。G)は長畑に入る道の分岐直前で国道東側の上に隠れるように残る旧道で、部落の南側の完全に藪化したところに痕跡があり下りつつ小沢を渡ります。そこから長畑北側までは孤を描きつつ畑の土手H)、堰の縁を馬頭観音の石碑  H)をへて北西に向かいます。しばらく林道化した道を登ると切通しを経て藪を経由し小沢を渡り I)林の中に残る道跡 J)を塚の峠に着きます。そこは旧国道45号線で切除され、下右の白い印の所にある水準点があるのみで、そこにあったとされる一里塚は消滅していますK)。

A)国道45号線の真崎への分岐のすぐ北側に残る旧道は国道で寸断され、国道西側にその続きがあります。

 

C)切通しを50mほど西に進むと林道にぶつかります。その角におそらく移設されていない石碑が2つ、半分埋もれて立っています。旧道はここから北に方向を変えます。

E)自動車道インターの丘を切り割った所の西の上に林道化した旧道が残り、国道45号線方向に続いています。

G)国道45号線の東側は湿地帯と沼があり、旧道は東側には存在できません。西側を踏査しても道跡はみあたりません。ということは国道に取り込まれていると思われます。その長畑の南端で国道西側の土手の藪の中に旧道が現れます。

H-2)土手と堰の縁を少し来ると、馬頭観音の石碑が道端に立っています。

J) 沢を渡り斜面を登ると小さな切通しとして旧道は残っています。そこを少し進むと林道化した道が北上するのが見えます。この右手を旧国道が並行しています。

B)  A)から10-20m西に歩くと

こうした切通しがあります。明らかに鍬などで人力で作られた切通しです。機械で削ると道路部分は広い平面となり、両側斜面も角度が急になることがほとんどとなります。

D) 石碑から200mほど北上すると、三陸自動車道田老北インターのトンネルの真上に着ます。そこから先は自動車道工事のため旧道は消滅しています。

F)切り割られた自動車道の旧道の最も上部から南東を望むと魹ヶ崎から月山など、宮古浦の山々が望めます。路程記でも石立というところからこの景色を望めることを記録しています。このあたりが石立かもしれませんが、その正確な位置は住民に聞いても判然としません。

H)薮中の旧道が沢を渡り長畑の部落内にくると畑の土手となっているところを北上します。

I) 石碑から北に旧道を行くと

 切通しを抜け、沢を渡ります。この部分は道跡ははっきりしません。

K) 旧国道が西に大きく曲がる所に塚の峠があります。そこには一里塚があったと言い、県教委「浜街道」ではこの写真の所を塚としていますが、踏査すると塚ではなく土の盛り上がりを切り取ったもので、そこに水準点があるのみです。旧道はこの藪中を西に少し行き、北に坂を下ります。手前の平地は旧国道45号線で、正面の隆起は張り出した山の一部を切り取った残部になります。


4)塚ノ峠から小堀内

  塚の峠は名前のごとく一里塚があった、と路程記には記述ありますが、現在その姿は見当たらず、塚に似たような土の盛り上がりには水準点が設置されていました。よく見ると旧国道建設で尾根の突端が残る形で尾根の一部を切り通すようになっており、尾根の先端は緩やかに北西に向かって続いており、一里塚とは認められないと思います。また塚の峠の正確な位置も不明です。県教委比定の直線の明らかに機械的に山を切り取り建設された林道は旧道とは異なると思われます。旧国道南側から来て水準点付近にかすかにその北側の延長と考えられる旧道がみられ、ことごとく藪と化していますが、平坦は地形を往き、青野滝川手前で山の斜面を九十九折れ道となって川南岸まで降りる旧道が残っております。ここから青野滝川を越え、小堀内の東側を行きますが、旧街道はよく残っており、一度歩いてみることをお勧めします。

 塚ノ峠の正確な位置は不明ですが、水準点付近から林をまっすぐ北上すると、掘割の九十九折れの下り坂など、明らかに旧道が藪の中に残っています。真の塚の峠はこの下りに入る前あたりかと推測されます(A)。どこもそうですが、台風被害で道が沢化したり、掘られたりしている所が多くみられます。青野滝川は石を沢に放り込んで十分渡渉可能です(B)。その後昔の姿を残す登坂をしばしのぼり(C)、旧45号線にでる近くに新発見の”山ノ神”が佇んでいます(D)。街道を歩くとよく石碑に遭遇しますが、面白いことに保護色の石碑はすぐそばを通っても気づかないこともあります。道を戻る時にはじめてその存在に気づいたり・・・。その沢からの登りが旧国道45号線と合流すると、その山側を並行するように旧街道跡が叢の中に残っています。やがて新しいほうの国道45号線を東に横切り、その切り取った斜面の北側の藪の中に旧道跡があり、手掘りの切通しを通って、”下坂”(E,F)と記録されるよく保存されている坂をくだり、”ウチノ沢”を渡ります。

(ミニ知識) 

 三閉伊通海岸整正分間絵図に、また三閉伊路程記にも北から南下する記述に、小堀内の南に”大堀内”という地名が登場します。小堀内があるのだから大堀内があってもおかしくない、とは考えつつ、調べていましたが、”大堀内村”となっている青野滝の集落で、何人も話を聞きに行き、先日ついにある方から、村の名前は知らないが、小堀内から青野滝川旧国道から降りていく旧道のあるあたり一帯が、大堀内といった。という情報を得ました。やはり大堀内はあった、ということが判明し、昔の記録は正しかった、ということがわかりました。また青野滝は古は青竹と書いて

アオンダケ、と読んだ記録もあります。ここには遠見番所がありました。

A)水準点付近から平坦な地形を

そのまま藪の中を北上していくと、旧道跡がみられ、その尾根の北端からは写真のように掘割の九十九折れ道として青野滝川縁まで下って行きます。下端部分は崩壊しております。

 この道はどの記録にもありません。新発見と思います。

C) 川を渡り坂を登るとそこの旧街道は当時の姿そのままと思われる状況で非常に良好に残存している。

E)坂を登り切り、しばらく旧国道沿いに旧道は行き、国道45号線を横切り、国道の東側に、法面の中腹にその姿を残しつつ渡る。そこから切通しを通って、”小堀内下坂”を下って行く。ここも非常に良好に旧道は保存されている。

B)青野滝川には昔は橋があったとのことである。(といっても丸木などを渡した程度であろう)

D): 大牛内あたりの開拓部落の国道の西側を、林道化した旧道はよく保存され、現在も時々使用されているようである。

F) 坂を下る途中では、右が二分され、すれ違いに容易なように?なっている。時として旧街道はこのように二筋になっている所を見ることがある。


5)小堀内から石畑

 今は小堀内と言えば、グリーンピアのある当たりのように思われますが、古の小堀内は国道45号線からそれに入る道の400-500m南の集落が、小堀内部落です。路程記には”小堀内十軒”と記載されています。その集落内の北側に寄ったところの小沢=”小堀内沢”が古の攝待村と乙部村の村境となります。小堀内から石畑までは、旧街道は国道45号線の西側にでることはなく、東側をいきます。下坂を下ると”ウチノ沢”(A)、台風で沢筋はガレバと化していますが、石を伝って渡れます。渡って杉林の中の旧道を行くとすぐ切通し、そこを過ぎると小沢=”小堀内沢”(B)にかかった木橋を渡ります。この沢が旧乙部村と攝待村の村界となっています。その後も少々藪化したりする道(C)を行くと大木の下に馬頭観音(D)が現れます(この石碑も市の記録にはなく新発見となりました)。この石碑は古、子供の疳の虫、発熱などがあればおばあさんなどがここにきて拝んだ、とのことです。よく残る旧道を進むと、ある家の薪小屋の道(ここが旧道であったとその家には伝わっています)となり、左に国道45号線をみつつ、向新田のグリーピア方面にまがる道路の分岐(盛り土されている)に至り、旧街道はいったん消滅します(E)。このグリーンピアへの道の北側は旧道としての形はなく、明治の赤線道路として北上している痕跡を認めます。小堀内の集会所脇を通り、さらに国道から東に分岐する道(これも盛り土されている)の北側には、電柱、電線が設置場所としている藪の中にかろうじて旧道跡がみえます(F)。そこを少し北に行くとしっかり旧道が姿を現します。農作業などで使用されているようです(G)。そこから少し行くと旧道は舗装道路に吸収されます(H)が、そこに一つあとの石碑があり(I)の場所に移設されたとのことでした。この舗装道路が国道にぶつかる前に畑の中を行く旧道がありますが(J)、そこで旧道はいったん姿をけします。県教委の調査報告でのこの部分の旧街道はその多くが旧国道45号線となっていたりしますが、小堀内から下坂を下りて、水沢に行く道が分岐するあたりで現国道を西に跨いで南大嶽の東側の沢筋の斜面を下りゆくまで、現国道東側を往きます。

A) 小堀内下坂を下ると、水害でガレ場と化した”ウチノ沢”にきます。その向こう岸の杉林の中に旧道が見えます。

C) 小堀内沢を渡り少々藪の中を漕ぐと、昔の旧道をそのまま残したようなところとなります。

E) さらに北上すると旧道はあるお宅の庭の小道となり、左上にある国道のすぐ東側を並走し、グリーンピアに行く道が国道から東に分岐するところでその造成により消滅します。

G) さらに北上していくと農地の脇をこのような小さな切通しなどを通り抜けていく旧街道がそれとなく残っています。

I) H)から移設された”西国塔”が新しい道の脇に草に埋もれていました。この石碑も宮古市の石碑に未登録で新たな発見となるものでした。この道の一番奥が国道45号線につながります。

B) ウチノ沢を渡り100m程度行くと、”小堀内沢”にかかった木橋に至ります。ここが近世の

乙部村と攝待村の村境です。おそらく昔もこんな橋がかかっていたものと思われます。

D) 小さな坂をあがるとそこに大きな木の下に馬頭観音がひっそり立っています。この石碑は

宮古市の石碑に未登録の新発見のものでした。子供の病気などでここに来て拝んでいた人がいた時代はもう昔になります。ここに合流してくる道が小堀内の部落に往く古い道と思います。

F) E)の消滅した道を追うと、200mほど北の国道東側の小沢の縁に、藪化して存在する旧道の痕跡を認めます。そこは電柱が立っているラインに一致します。

H) 旧道は石畑地内の国道東脇で、新しい舗装道路で途切れます。ここに次に示す石碑が立っていたとのことです。

J)舗装道路が国道に合流する30m程度手前で国道の東側の畑のあぜ道的な状況で旧道がありますが、この先で消滅します。


6)南大嶽から攝待川

   現在攝待の南大嶽とか北大嶽の名は、地元の方も知らないようで、その名は使用されておりません。残さなければなりません。また攝待も現在”摂待”を使用しますが、古くに使用されている攝待をあえて使用します(2022年12月30日、下摂待の舘崎のお爺さんへの聞き取り時、はじめて北大嶽、南大嶽を知っている方に会いました)。

 水沢(みっつあわ)で国道が右にカーブを描き始めるところの左に分岐する林道が旧街道である(A)。そこには少し場所を移動したとされる道標がある(B:大きな石碑にちょこっとのった小さな丸い石碑)。このあたりに一里塚があったとされています。その前をまっすぐ北に向かうと、現在牧場のゲートがあるが、そこを過ぎ沢沿いの西側の斜面を落ち葉に覆われ下っていく旧街道が存在する(C)。路程記などにのこる”南大嶽”の九折の難路である(D,E)。しばしまっすぐ右側の沢の斜面を徐々に下って行く。南大嶽の北斜面にでると九折の道となり攝待川川端にでる(F)。川の縁は小さな崖となっていて川原にはでれなかった。右跡は軽く藪化しているものの、200~300年にあまる人や牛馬が毎日通った道跡は立派に残っていた。

そこから攝待川北岸に丸太を加工した橋でわたったという。水沢(みっつあわ)のある古老は、おやじに連れられて攝待に用事で橋を渡る時、おっかなくて渡れなかった,との幼い時の思い出を語ってくれた。戦前まで旧街道はいたる所で”現役”であったようです

A) 国道東側でいったん消えた旧街道は、明治期の”赤線道路”として国道東側をそれに沿って水沢(みっつあわ)の国道のカーブまで来て、国道西側に分岐することでその姿を再び現します。このあたりに一里塚があったとのことです。

C)石碑脇を行き、牧場ゲートの脇をみると、杉林の左側を下って行く藪化した道跡が見えます。そこが難所と言われた南大嶽の坂になります。一気に100mあまり下ります。

E) どんどん北に下って行くと、九十九折れの道が続きます。下には攝待川がみえてきます。また攝待の部落も川のすぐ向こうに見えます。

B) 左写真のガードレールが切れるところにこの石碑群があります。小さな長い丸型のものは道標です。ここが街道であったことを示します。(これは元の場所からここに移設されたとのことです)

D) 南大嶽の坂を下ります。右下がりの斜面を下ります。落ち葉に埋もれて旧道ははっきり見えませんが、写真のように斜面とは違う少し平らな感じとなった所が道です。

F) さらに下ると三鉄のトンネルの真上に近い所を過ぎ、攝待川の縁に到達します。三鉄の鉄橋が右に見えます。しかし川原は水害で崖化していて、橋があったという川原には降りれませんでした。


7)攝待、北大嶽~小成山

  攝待は、北と、南をそそり立つような山に囲まれたお盆の底のような地形ですが、遠くから眺めると桃源郷のような雰囲気がします。しかしその地形が街道を歩く人には難所でした。北の山は”北大嶽”、南側は”南大嶽”と、土地の人がそう呼んでいたかはわかりませんが、「路程記」にはそのように記録されています。昔使われていた地名などが現在誰も知らない、ということはよくあります。そうした死語となった土地の地名を残すのも大事なことと思っています(すでに書きましたが下摂待で南北の山の名前をご存知のお爺さんに会えました)。

 南大嶽から攝待川原まで比高差約150mを下り攝待川北岸から振り返ると下ってきた九十九折れの道が下の方に見えます。三陸鉄道の線路土手に沿ってそこから一部消滅した道を北上すると200m程度で旧街道脇に立つ石碑群が迎えてくれます(A)。少し行くと国道45号線を横断し、摂待の集落の中の舗装されているものの昔のまま残る旧街道をゆっくりとうねうね北大嶽に向かいます(B)。すると屏風のようにそそり立つ山の縁につくとそこに石碑群があり(C)、そこから右方向に北大嶽を登る道が雑草に少々覆われているものの、残っており、登攀可能です。その坂は攝待側から北上すると90m一気に登ります、振り返ると攝待の集落が真下に望めます(。D)北大嶽の北側の門沢から南下すると30m余りでピークに到達します。その坂を登りきるとサイノカミがある、と路程記にありますが、当初北側の門沢と旧国道から捜索しても発見できませんでした。しかし改めて攝待側から北大嶽を峠のピークまで登ると、旧国道45号線で大きく切り通された場所の上側にでましたが、そこに自然石数個と山の神の石碑が木に立てかけてある塞ノ神を確認しました(E:左の白矢印、黄色の矢印は街道の切通し)。下攝待の舘崎のおじいさんによれば、昔はやり病があった時に、このサイノカミでそれは止まってくれて、攝待には病がでなかった、とのことです。サイノカミのある峠から門沢に沢沿いを下りますが、台風でガレバと化していいました。門沢には昔橋があったとのことで、沢の東岸に旧道が残っております(F)。門沢の谷筋を北にでると落合で数本の沢が合流し、そこの沢南岸を東に向かうと石碑群が見えてきます(G)。その位置から沢を北に渡りまっすぐ昔はあり使用されていた、という沢沿いに行きますが、そのすぐ北は自動車道に”小成山”の”大坂”の登り口はまったく失われています。しかし自動車道の柵沿いをあがると、自動車道のトンネルの真上を通って西に斜行しつつ登る坂が残っていて林業などで使用されているようです(H)。その上は5~6曲がりの九十九折れの坂があり、登りきると舗装化されている、小本との境の長根(尾根)道に出、小本のカモイカ山までその長根道を2kmあまり歩きます。周囲にほとんど旧街道を思わせる道跡はなく、この長根道がもとの旧街道と考えられました。

A) 向こう側に見える南大嶽から攝待川の丸木の橋?を北に渡り200mほど来ると石碑群が迎えてくれます。

C)攝待部落の北の端にくると石碑群があり、その右手から北大嶽に登って行きます。

E)北大嶽の峠にくると切通しがあり(黄矢印)、そこがピークとなります。その左側に自然石を立てかけた塞ノ神の塚が昔のままにひっそり存在します。一つは山ノ神の石碑となっています(白矢印)。

G) 門沢をでると小成川の南岸沿いに小成に入ります。石碑群があるところで川を北に渡り、小成山にあがっていきます。この部分は自動車道工事などで道跡は消えています。

B) A)から国道を北に横切ると、昔ながらのゆっくりカーブする旧道が現在も使われている攝待部落内の道を抜けていきます。

D)北大嶽の南斜面を九十九折れつつ登っていくと、下には攝待の集落がまじかに見えます。

F)北大嶽を北に下ると、水害で崩壊した斜面を下り、門沢沿いに行きます。そこにも旧街道が残っています。路程記で”ウチノ沢”とされていますが内ノ沢は小本地内にあり、ここは門沢(カドサワ)になります。

H) 小成山の登り(大坂)を上がっていくと、自動車道のトンネル入り口の真上を斜行していきます。そこから九十九折れを少しのぼり長根道になっていきますが、ここも旧道は保存状態は良好です。


(付録)攝待北大嶽の塚について

 北大嶽、南大嶽という名前は路程記に記されていますが、地元攝待で聞き込みしても、これまでその名前を知っている方はありませんでした。

2022/12/30下摂待のT家の古老に地元のことを聞き込みしている時に、その方はこれらの名前を普通に知っておりました。

 また下の写真のように、北大嶽にある塚は、元文年間の宮古通図(もりおか歴史文化館所蔵)で、攝待地内に一里塚の印が描かれており、北大嶽に塚があることを宮古市史編纂室に一報し、調査いただいたところ、写真のように石を大量に使用して積み上げた作りで、かなりの大きさで、どうも未発見の一里塚の可能性がでてきております。結論は本格的な調査をまたないとなりませんが、これが一里塚とすると大きな発見と考えます。期待して待ちたいと思います。なお、街道を挟んで反対側は形ははっきりしませんが、やや丸みを帯びた形にも見えます。


8)小成山から小本

  小本は、宮古から北上する浜街道が盛岡から岩泉を経由して小本に至る”小本街道”と合流する地点で、盛岡の藩主に献上する鮭を取る番所が存在した、重要な場所でもあった。江戸時代後期の鮭漁の第一は小本川、次は宮古川(閉伊川)、で津軽石川はそれに続く状況があったのです。

 小成の北側の”小成山”の長根道を小本上のカモイカ山に向かい北上しますが、この舗装された長根道はほぼ旧街道に重なっていると思われます。旧国道45号線が小本からカモイカ山を越えて茂師に向かう削平された峠筋の両側には少々旧道跡が残っています(A)。そこを北に少し行くと、現在潮風トレイルとして使われている、小本に下る”神明坂”(B)下り口に着きますが、そこにあると記録されているサイノカミは見当たりませんでした。

 坂を下りずに海側に行くと、盛岡藩の”遠見番所跡”があり(地図上のオレンジの四角のポイントが平地に削平されています)、観光地の熊の鼻(C)も見え、景勝地です。九十九折れの旧国道を何回も横切るように下る坂は複数のルートがあり、よく保存されていて、下りきる少し上の森の中に八幡様(D)が鎮座しています。その隣には宗得寺があります。そこから小本川河口の砂洲にあった須賀町方向に向かうとそのあたりに対岸の中野にわたる長さ四十間の”おさ橋”があったといいます。【参考:サイノカミ=塞ノ神=妻の神、は村境などに自然石あるいはお地蔵さん、あるいは小石を積み重ねたりして、その境から災いが入ってこないようにするひとつの信仰対象、まじない?でもあったのです。】

A) 旧国道が小本からカモイカ山にあがり、熊の鼻展望台に行く峠あたりの藪の中に一部旧道跡があるが、他の場所は林道になってしまっている。そこから小本の町に斜面を九十九折って下る”神明坂”となる。

B-2):神明坂、

みちのく潮風トレイルとしても使用されております。路程記には”馬上なり難し”と記述されるぐらいの坂道、難所です。

D) 神明坂を下ると、八幡社に降りてくる。向こうに見えているのが降り口である。

この向かって左側に宗得寺がある。

B-1) ”神明坂”降り口。

一気に約100mの標高差を下る。この道はよく残っている。

(小本では神明坂の名前を知っている方には出会わなかった)

C) 路程記にも記録されている、穴の開いた岩”熊の鼻”。その向こうが小本川の河口で小さな湾になっている。左手の山がカモイカ山。熊の鼻の岩が続く山の上に”遠見番所”がありました。


【田老から小本までのまとめ】

   宮古から田老までは現在の国道45号線は、旧街道のと同じ道筋を開削したりするのではなく、別の場所に主にトンネルにより作られたところが多い。そのお陰で旧街道は比較的よく残っている所が多く見られました。一方田老から北は、平坦な地形が多くあり、新たな道路が旧街道に重なるところも多いため、失われたと考えられる部分も多くみうけます。しかし地図上ではよくわからない部分を、Google earthや古い航空写真などで補完し現地踏査を行うことで県教委「浜街道」の比定するルートとかなり違う部分も多く,実際は残存している旧街道を認めることもできました。特に田老の小堀内から石畑、さらに小本の中野坂(次項に詳細記載)で良好に残っている旧街道を実際に認め得たのは、地域の近世交通に関して、旧浜街道の正確なルートを確定する上で(個人の見方ですが)、大きな成果と考えます。また、今回踏査で確認できた旧街道の多くは、地元の方々は通学であったり、戦後まで使用されていたところが多いこともわかりました。

 攝待北大嶽の一里塚と考えられるものは、市の調査結果をまって報告したいと思います。