付録:四十八坂道(脇街道)

 浜街道の織笠から大槌までの本道は、霊堂・萩野原・辺地ヶ沢などの一里塚がある、鯨峠を越えるいわゆる”鯨道”です。江戸時代初期(寛永20年、1643年)に山田湾に入津したオランダ船ブレスケンス号の、捕らえられたスハープ船長以下10名の乗組員が盛岡に送られる際には、この鯨道を通っています。しかし江戸期の後半はほぼその路程の厳しさ(大槌に至るまで鯨峠、二の鯨、一の鯨(辺地ヶ沢峠)と3つの峠を越える)などから海岸を通る脇街道の”四十八坂道”が主たる街道として使われたようです。三閉伊路程記・三閉伊日記での路程もこの道を通っていますし、嘉永六年の三閉伊一揆の一揆勢もここを南下し大槌に至っています。また脇街道がゆえに一里塚などは築造されていない、と思っていたら、吉里吉里の花水には、その北には塚の存在はない(知られていない?消滅した?)にも関わらず、四十八坂道での唯一の一里塚が存在します。南から北上する行程を想像すると、本道鯨道の辺地ヶ沢一里塚に相当するものにも思われ、そうすると四十八坂道にも吉里吉里より北側に一里塚があったのかもしれません。いやむしろあったと考えた方が自然でしょう。

 織笠の絵入り道標のある追分から、サイノカミ坂を越、織笠川を渡り草木に出た四十八坂道は、草木坂(鷺坂)を現在の国道45号と重なりつつ、長林にあがってきます。そこを少し南下すると国道から東側への下り坂を往き、現在の国道の東側台地下を地形に沿ってカーブしつつ浦の浜踏切のところに達すると、旧道は線路の東側の道につながり、丘の間を船越の南端の砂浜であった海べりにあった昔の船越村中心部に向かいます。そこを西方向にやや登り、山ノ内の部落内に到達します。そこの南端には鞭牛和尚の石碑が熊野神社下にあります。そこを通り少し行くと現在の道の右わきに斜面を国道方向にあがる細道があり、これが旧道です。国道に達した旧道はそこから先は国道、鉄道などの建設により消滅しています。

 山ノ内から国道にあがり所在不明となった旧道は大沢まで調査を進めており、旧道残存部は下図の赤の実線部分です。

この部分は、旧道は鉄道、国道また自動車道の建設によりかなりの部分が破壊消滅したと考えられます。

2023年1月初旬の段階で未調査が残っていた大澤峠の山田側部分に関し、ほぼ踏査を終え、残っている旧道、消滅した部分などかなりあきらかになりましたので下記の地図で報告いたします。

 三閉伊路程記に記載されている、沢の名前は、山ノ内居住の古老などにお話を伺って、照合しつつ記録しています。

 四十八坂道の船越の山ノ内から大澤峠、ほぼ踏査を終了しました。山ノ内から国道にでた旧道は神楽の自動車道造成工事などで国道南側に移設された神楽社、そしてそこから金畑(地元ではカダバダゲと呼ぶ)までの間、国道と鉄道工事でほぼ旧道跡は消滅しております。しかし”海太郎”の南側の削除されたものの残された長根の南側から地図に著すように旧道が残っており、50m程度南下すると鉄道で再び消滅、その50m程度南側で、長根を斜めに切るように、掘割の旧道が残っております。そこからまた旧道は姿をけしますが、パーキングエリアの北側の国道東側=海側の旧国道部分に旧道はあったと考えられます。そこを少し南下するとパーキングエリアの尾根を切り取った部分の北端に、急なのぼりとして30m程度の旧道跡がみられますが、そこを登ると鉄道によりそれは消滅します。そこからはパーキングのすぐ南には細い入り江が国道下まで入り込んだ、”サルッパネ”というところの山側を南下していくと思われますが、その山、鉄道周囲などを見ても、旧道は見られませんでした。そこから元の”磯よし”さらにその南の地区も旧道跡は山中、藪の中に認めず、住宅地造成、国道・鉄道工事で消滅したと考えられます。

しかし”隠畑”付近の住民の方によれば、住宅内を赤線道路として道跡があるとのことで、そこは確認できました。そのあたりの住宅地の最南端のお宅脇から、千貫長根という尾根が国道で寸断されている北側の尾根に旧道が50-60mほど見られました。その南は国道工事などでまた消滅。

水神林(発音はスズンベエス)の青年の家に往く道が国道から分岐する所から尾根の中に旧道が200mほど残っておりました。そこから大沢川までは完全に旧道は跡形もありません。

大発見!!? 

 岩手県歴史の道街道調査報告書「浜街道」、大槌町歴史の道浜街道 などでも言及・指摘されず、”林道に改修”されたとされる、四十八坂道大槌側の旧街道を確認、踏査しました。以下に記録します。現在は浪板の北側の田屋のさらに山側は、自動車道のパーキングとなり、そのあたりの旧道は消滅しましたが、パーキングエリアの北側斜面に、旧道の断面がみられ、そこから大沢方面に向かって、自動車道の山側の杉林の中に、そのままにほぼほぼ旧道は姿をとどめて大沢峠に達します。(2021年10月24日踏査記録)

 大沢を渡河し大槌町に入ると杉林の中にうねうねと峠に向かう登り坂が現れます。無数の旅人が歩いて、凹んで残った坂道がはっきり残っています。坂の頂上は”大澤峠”です。広くなった峠からは船越湾から太平洋の非常にすばらしい景色が望めます。峠のすぐ下には三陸自動車道が走っており、ぎりぎり大澤峠の旧街道は残されました。峠の南は路程記で”走り下り沢(坂?)”となっていますが、ここも切り通された坂で一気に下ります。ここから浪板の田屋の自動車道パーキングまでは旧街道について記述した物は一切目にしません。おそらく誰も確認できていないのだと思います。2021年10月大澤峠南の踏査を行ったところ、地図に記載したように、旧道がかなり良好に保存されているのを確認しました。一部には立派な切通しが残り、ルートがすれ違いようなのか、二手に分かれる場所もあります。ごく一部は林道に吸収、また水害で沢を渡る部分が道は消滅していますが、大澤峠南地区(大槌町側)の四十八坂の90%程度はしっかり保存されておりました。このまま末永く保存されてゆくことを切に望みます。

 沢などの名称は路程記の記録によります。

A-1):大澤峠東側、

大澤川から杉林内の開削されてよく残る道が峠に向かいます。

B):”走り下りの沢”と”左元沢”の間の尾根とは言えない平坦な所に林道に断ち切られたように旧道が残り南北に”うどう道”としてよくその姿をとどめています。

D):ある尾根の斜面は2ルートの道が作られており、牛馬のダンコ付けなどがすれ違いやすい作りとなっている。こうした道の構造は浜街道だけでもかなりの数がみられます。

A-2):大澤峠、

峠は昔の姿をよく残し、広葉樹の森であるため落葉後は開放的な景観を見せる。東側には直下に自動車道が見える。南に下ると”走り下り”と記録される坂があり、下った所に同名の沢がある。船越湾が一望。

C):”風の間沢”と”林の角沢”とされる沢の間の尾根は、切通しとなっています。

E):四十八坂が浪板に下ってくる田屋の坂が現在の国道と合流する海岸の高台に、”松磯の砲台場”が幕末に作られました。現在の「さんずろ屋」付近になります。


 いったん田屋から国道に合流した旧道は、浪板川北岸を上流方向に行きそこを渡ります。鉄道の山側の道を山際に沿って吉里吉里に向かいます。そこの坂道は(早坂=閉伊坂=這坂=猫坂)と呼ばれています。山に添うように吉里吉里に達し、右にカーブして行き、吉祥院前に達します。さらに行くと花水地内に至りますが、不思議なことに浜街道の脇街道であるにも関わらず、またその前後に一里塚がないにも関わらず、一里塚が存在します(花水、塚の鼻一里塚)。路程記でも不思議に記述されています。そこを西進すると国道を横切り南側を往き、さらに北側に出て吉里吉里坂にかかります。

 吉里吉里坂登り口から切通しの峠まで約270m程度で、険しい峠とは言えないのでしょうが、この峠は牧庵鞭牛和尚と吉里吉里の吉祥寺の鞭牛さんのお師匠が切通したと言われています。今その峠の切通しは、人がかがんで通らないといけない高さで、電線が通っており、”電線の為の切通し”みたいな状態です。大槌側に抜けると4-5曲がりしつつ下る道となっており、吉里吉里トンネル南口の真上に達します。トンネルの安渡側は国道の北側に少し旧道の痕跡があり、そこから国道の南側にある道に沿って下る細道が旧道跡で大徳院の方へと下っていきますが、その周辺では旧道は消滅しています。 現在新しい安渡橋があるあたりに、近世も安渡橋があり、吉里吉里坂から大槌に入る”四十八坂道”はそれを渡って、辺地ヶ沢から来る本道に、末広町で合流します。