第二部:宮古以南、陸前高田(仙台領今泉村)まで

  ここからいよいよ盛岡領宮古から、仙台領陸前高田までの浜街道になります。

1,宮古から豊間根・ブナ峠まで

1)宮古~磯鶏

 浜街道の起点となる”高橋(御水主丁)の一里塚”を御水主町を南に通り抜けていくと今の向町、今の新川町は当時は川の中で存在しません。当時は閉伊川の縁に出ると、藤原までは渡船に乗って渡ります。当然藤原は昔は堤防などなく、文字通り藤原須賀の砂洲の上にできたような町でした。享和三年の記録には、藤原六十二(軒)とあります。

比古神社は、現在の伊手電機のあたりにありました。そこを過ぎていくと今もある観音堂の前を通ります。その辺りには宮古通代官所のお仕置き場(処刑場)がありました。すこし往くと石の岩が海岸に張り出した”石崎”です。そこが藤原と磯鶏村の境になります。石崎には今も石碑群が草生して国道脇に存在します。石崎を丘に沿って磯鶏に回り込むとそこは、本道である八木沢~金浜を通る道と、神林から高浜峠を通って金浜で本道と合流する”高浜道”の分岐です。高浜道は磯鶏駅の近くを通り旧国道と同じようなルートで八木沢川を渡ると概ね現国道に沿って、旧宮古商業高校のある三陸国道事務所あたりを通って山の稜線を通過し、高浜峠を経て高浜に至ります。本道は三陸鉄道の北に沿い八木沢団地の下の方を通過し、八木沢神社下の道を往きます。このように本道は八木沢川と北側の山の間の縁を伝います。

 補足ですが、この地図では鏡岩とカシアゲに砲台場を記入してありますが、宮古の砲台場は他に浄土ヶ浜に4か所、湾向の追切の北側に2か所、重茂に3か所砲台場がありました。盛岡藩全体で30余りの砲台がの内、宮古に11か所と1/3があり、以下に重要視された要地であったかを意味すると思います。(砲台場の場所が具体的にここ、と特定されている場所はあまりありません)

A-1):新川町から藤原を臨む。

 近世は橋は無く、新川町も存在せず、御水主町(おかこまち)という、盛岡藩の藩船の乗組員が住んだ町から藤原の現在の宮古橋のかかるあたりに渡船で渡りました。

B):藤原の観音堂、石崎方向を国道45号に沿って臨みます。この

左手付近に藤原の処刑場がありました。観音堂に隣り合う墓地は、常安寺の管理になります。

D-1):上村の八木沢方面に向かう県道を写真の速度表示の所で左に入り、三鉄を横切り南下するルートが旧道となる。

D-3):D-2の道を西に向かうと上村の陸橋がある所に至るが、そこの写真の草地斜面を西に上ると石碑群のある所に到達するのが旧道のルートである。

A-2):宮古橋の袂から藤原を視ます。今4車線ですが、正面の2車線道路が昔からの街道に重なっています。

C):石崎は昔藤原須賀と磯鶏須賀の砂浜縁まで岩が出っ張っていたことでその名があります(その先端が”石崎鼻”)。今はその岩が切り通されて、国道が通り、その切り取られた岩には、往時を偲ぶ石碑群が集められています。上の石碑あたりが昔の道筋の高さとのことです。

D-2):線路を東に渡り、南下し、左端の家のある手前の路地を右に入る。

D-4):D-3の斜面を登ったところが、石碑群が集められている上村から八木沢に向かう所となる。


2)八木沢から金浜

 八木沢神社、舘崎の下の石碑群を過ぎ、街道を南に下ると、Y字路にきます。左は橋を渡って住宅地となったところをほぼまっすぐ往く道があります。橋を渡らずに八木沢川の西岸を往くと橋の袂に小さな石の祠がコンクリートの台座の上に鎮座しています。裏に有名な藤原の住人であった、”石工亀治(亀は亀の絵になっている)”作です。旧道は川の西側=山側を川に沿って行きます。川沿いの道が橋をわたる所の対岸には享保年間などの3体のお地蔵さんがおわします。そこは中世から続くY家の白山神社の下にあたります。さらに南下すると”松の坊”への別れを過ぎ、寒風を通過し、山が八木沢川に迫る”鼻”を通過し、今は切通されている”細越坂”を越えます。そこは今”ラントウ沢踏切”がありますが、昔は踏切のところは西側の川(流れが切り替えられている)の所に続く山の張り出しでした。細越坂の突端には今も石碑が寂しく藪の中にあります。そこを過ぎ,市道を金浜にゆっくり登って行きますが、市道と街道は重なる所もあり、そうでないところもありますが、旧道の道跡がわかるところはあまりありません。大谷地への分岐あたりが”八木沢峠”でサイノカミがあったといいます。現在は峠は切り崩されていてサイノカミもありません。そこからは金浜に下って行きます。高浜からの道は国道45号線を高浜小学校から海沿いに下るところは山の海側への張り出しがあるため、道は当時はなかった小学校校庭を突っ切り高齢者施設の脇を通り、金浜稲荷神社のところを下り、江山寺前を通って、馬越峠への入り口で八木沢からの本道と合流します。江山寺山門前に多数の石碑があります。 

  高浜道の高浜峠を2022年2/27踏査しました。高浜側は河南方面への新しい道のため途中寸断されてしまっていますが、ほぼ全線峠筋の旧道はよく残っています。峠近くに長根の切通しがあり、その傍らに古松の巨木が10本程度立っています。宮古市史資料集に”高浜峠の日除けのために松を植える”という記録があり、もしかしてその松かもしれません。市中心部近くに旧街道が良好な状態で残っており、保存したいものです。

A-1):八木沢神社、

右に見える旧道の脇に祀られています。

B):八木沢川西岸の旧道、

白山神社下の橋付近から北をみます。八木沢の最も古い家のY家の当主の方からこの道が旧道であると話を聞きました。住宅街をほぼまっすぐ来てこの道と合流する道は新しく作られたものです。

D):金浜江山寺:

同寺参道前にたくさんの石碑があります。金浜の部落は津波後建物がなく寂しい限りですが、此のお寺の南側で高浜からくる脇街道が合流しました。

付録)高浜峠

旧道がよく残っており、古松は古にここを通った幾多の人々を見ていたものでしょう。江戸時代初期の宮古御官所文書に、日除けのため高浜峠に松を植えることが記録されていますが、この時の松かもしれません。

A-2)舘崎下の石碑群、

八木沢神社から少し南下すると旧道脇に、近くから集められた石碑群があります。このあたりの旧道は、石崎から山脇に沿うように地形に沿って走っています。昔の道はこんな感じで沢川に水が出ても道は被害がない位置に作れれています、また沢川の周囲は湿地が多かったりするため、これを避ける意味もあると考えられます。

C):細越坂と石碑、

ラントウ沢踏切の所の石碑が立っている小丘は手前の道路東の山とつながっていて、この上を細越坂が越えていました。今は切通されて坂はなく、石碑のみが往時を偲ばせます。



3)金浜から藤畑

 八木沢峠を下り、江山寺の西側を南下し、馬越峠への坂をあがる。高浜道は現在の高浜小学校校庭を突っ切るように、金浜稲荷神社の前に下り、江山寺の東側を南下し、今の三陸自動車道宮古南インター入り口付近で合流する。そこから国道沿いには山と津軽石川に阻まれて川沿いに法の脇方向には回り込みにくいため、馬越峠にあがり、そこを津軽石地内へと降りていくルートをとる。馬越峠には一里塚があったというが、自動車道造成前かろうじて塚の一部が残っていた。しかし自動車道工事により浜街道馬越峠道とともに完全に消滅した。馬越峠の津軽石側には多くの石碑が残っている。自動車道わきの市道と違い、それを横切り馬越地区の北の山沿いに旧道が町中に続く。さらに町の中の中心路が街道で、そこを沼里(ぬまり)、馬板地区を通り、新町地内を現在の道となって南下する。その道が国道と合流する直前に石碑群があり、そこから津軽石川縁に出て、駒形通側に渡り、現在も舗装されているが旧道の面影を残す、藤畑地内の市道をうねうねと南下して行く。左手には駒形神社、藤大明神が寂しく鎮座している。往時は岩手県北を中心に、駒形神社祭礼には多くの馬を連れた参詣者が集まったという。南部駒を育成する牧の一つとして、崇敬を集める馬を祀るお社である。神社前にも多くの馬頭観音をはじめとする石碑が立っている。そこからすぐに右方向の川岸にでて、水の少ない川を、丸木あるいは板橋を渡り、今は消えた大判川あたりにでる。

  県教委比定のルートは近代に整備された津軽石川の堤防土手上の道であるが、この土手・堤防は近世には存在しなかったものである。

(豆知識):近世だけではなく昭和初期から戦後あたりまで(所により現在も)、沢や川には橋がかけられていた。その”橋”というのは、現在のように橋げたや手すりなどを持った”橋”ではない。橋のない沢・川も多かったが、かかっていても、ほとんどは岸辺から岸辺に丸太を一本、あるいは二本、途中に自然石などでつなぎの“橋桁”として使用したりしていた。水がでれば、すぐに流されてしまうので、橋部分の丸太の端に蔓などを巻き付け、それの別の端を川岸の太い木に巻き付けたりし、流されても、流れて失われないようにして、水が引いたらもとの位置にもどし復旧したりするところが多かった。

A):本道と高浜道の合流部を南から見る。右に国道45号線として高浜道が、また左側から浜街道本道が来て合流する。合流点から少し行き、津軽石川の河口を回り込まず、小さな谷筋を西南に上る所が馬越の坂です。

B-2)少し下るとそこには石碑群が迎えてくれます。その前を左に曲がり山の林を抜けて津軽石の下町に降りていきます。右手の木の間付近に石碑群があります。

C):盛合家

さらに南下すると、高札場前を過ぎ、近世の豪商盛合家住宅前を街道は通ります。

E)藤畑地内の旧道。

橋を渡り畑の中の道を往きます。近世には堤防はなく畑、湿地の中を今の駒形通が旧道で、南下したようです。駒形通は舗装され拡張されているものの、古の道の雰囲気がよく残っています。

B-1):馬越坂津軽石側:中央の茂みの凹みが馬越坂の降り口で、手前の坂につながります。

B-3):山から住宅街に降りて来た馬越坂。津軽石村の本町へと入って行きます。

D):津軽石川前の石碑群。

津軽石地内を南下してくると津軽石川にぶつかり、そこを古には徒橋(昭和前期までは丸木の橋)があって、対岸に渡りました。


4)藤畑から石峠村

 津軽石から津軽石川を東岸に橋を渡り、今も舗装されているものの旧道の面影がある市道を南行くと岩手県内に広く信仰を集めた駒形神社・藤大明神に至ります。その鳥居前に多くの石碑が集められており、鳥居前の道を津軽石川方向に曲がって行き、伏流が多く流れの少ない、津軽石川の川原を対岸に渡ります。古には大判川がそのあたりに流れていたものの、現在はバス停などにその名が残るのみで、どこをどのように流れていたかは詳しくはわかりません。荒れ地を南下すると、昔はお茶屋があったといいますが、そこを石峠に続く長根にゆっくり登る坂道を行きます。

そこも現在住宅地化しており、正確な道筋は不明です、としておりましたが、2022年2/27現在住宅地となっている尾根筋の東側の沢筋を踏査し、旧道跡を確認しました。住宅地の尾根が斜面となり沢にいたる、その斜面下部を現在の”大判川踏切”から登って行きます。道の上部は現在森林伐採作業でかなり失われようとしています。坂の最上部は概ね旧道と考える眺め道を行き、携帯電話の電波塔の立つところから約100m南の林道筋に右に林に入る道があり、そこが宮古市と山田町の境界となっていて、その境界に魔物が入り込まないように、石仏のような優しいお顔の”サイノカミ”がひっそり佇んでいます。そこから林の中を下りますが、ここには一部旧道がそのまま残っています。しかししばらく行くと道筋は同じでも林道化してしまっています。石峠部落の北側のお墓のところに、石峠一里塚が対で残っています。すぐそこまで巨大なソーラー発電所が迫っていて、旧道、一里塚などの保存に危機感をいだきます。石峠の部落に入る手前に石碑群が立っており、石峠の部落そのものが昔の雰囲気をよく残しており、懐かしい風景ではあります。そこから舗装された旧道を豊間根に向かいます。路程記にもあるように、石峠から豊間根は平地にて豊間根地内の旧道はほぼ平坦で歩きやすかったでしょう。

 払川の旧津軽石川河川敷から石峠坂宮古側を登るルートは未調査で、後ほどその結果をアップしたいと思います。

A-1):駒形神社・藤大明神、

津軽石から橋を渡り藤畑地内の旧道を南下すると、県内広く馬の神様として篤い信仰を集めた駒形神社にいたります。藤畑の名前に因んだ藤大明神も同じ所に祀られています。

A-3):藤畑側津軽石川端。

当然昔は土手と土手道はなかった。

C-1):石峠坂の長根道、林道化されているが旧道の姿を残している。

C-3)石峠村に下る旧道、

台風の水害で道が抉られていますが、よく旧道の姿を保っていると思います。

D-2):石峠入り口の石碑群、

石碑前の小道が旧道で、一里塚を経て峠に向かいます。

A-2):駒形神社前の石碑群を右手に回ると津軽石川縁にでて、伏流水が多く川筋表面は水が少なかった津軽石川を再び西岸にわたります。少し前まで板を川にかける当番がいて、水が出そうだと取り外したそうです。

B)新たに確認できた、住宅地東側斜面に坂を登る旧道跡(国土調査の杭があり赤線道路と確認できる)が残っていた。

C-2):石峠のサイノカミ、

向こうの林道化した街道が手前の旧道となり石峠の部落まで下って行きます。ここが津軽石村と石峠村の境(現在は宮古市と山田町)になります。旅人は周囲に小石を積んで災いの回避を願いました。

D-1):石峠一里塚、

東西の一里塚が保存され、その間を旧街道が昔のままの姿で通ります。道の右が東塚、左が西塚です。


5)石峠から豊間根

 路程記にあるように、石峠から豊間根はほぼ平地で浜街道の中でもとても歩きやすい場所であったと思います。石峠の部落は今でも、昔の村の風情が色濃く残り、とても良い村であったと想像されます。そこから豊間根村の勝山に平地をほぼまっすぐに南下して行きます。荒川を渡り堂が鼻から勝山を往き、津軽石川を渡ると国道から右手に分かれていく舗装された旧道が残ります。その道を進むと豊間根小学校に右折する道を過ぎ

左手の道脇に石碑群が佇んでいます。さらにそこを少し登坂(新田坂)を行き、木立の中の道を右にカーブていく所にも石碑が数基、移設はない状態?で道の両側に迎えてくれます。木立の中を少し行くと、小沢を渡り国道脇の草生した砂利道が旧道で、しばらく国道の南側の下を道は往きます。 国道から分かれてくる道と交差し、そこを通り過ぎ小さなカーブを過ぎると左手の高みに小社と石碑群が現れます。田名部古碑群と言うそうです。さらに南東に幅は広くなっているものの、走る感じなど、旧道の雰囲気を残した旧道が次第に田名部の沢筋で林の中へと入りブナ峠に向かって上り坂を行きます。路程記に記述される”山口””小沢”は屋号で、今もそれらの旧家は存在します。

A):石峠から勝山、

石峠から荒川を渡り豊間根村の中心部に向かいますが、渡河以外の道は旧道が拡張舗装された道で、ルートは昔のままと思われます。川には当時橋がなく川幅が五丁ほどあるところを、歩行で渡ったと路程記は記録しています。

C-1):新田地内の街道、

ほぼ平坦でまっすぐな歩きやすい街道が新田地内に来ると石碑群がある。向こうに見える山のあたりは少々上り坂で、新田坂という。

D-1):田名部地内の旧道、

新田坂を下った旧道は国道45号線の南側に沿って農作業でのみ使用されているらしい砂利道が旧街道です。

B):豊間根中心部、

記録に残る通り、平坦な昔と同じ道(舗装拡張されているが)を南下していきます。

C-2):新田坂、

緩く坂を登り西へとカーブする林の中の旧道両側に江戸期の石碑群が佇んでいる。ここを往くと田名部地内に入る。

D-2):舗装道路の写真真ん中の草地が旧道で、さらにその上に地蔵堂と石碑群(田名部古碑群)が旅人を見守っていた。このすぐ先に路程記で”山口””小沢”とされる、実は地名ではなく屋号をもつ家々を通過し田名部一里塚を通りブナ峠に向かいます。


田名部・ブナ峠から山田方面は、次をご覧ください。