5,唐丹町(石塚峠)から大船渡市

1)旧仙台藩領石塚峠(盛岡南部領仙台領国境)から片岸

 盛岡南部領と仙台伊達領の藩境の石塚峠の切通しを越えると、旧道は急斜面を徐々に下るように西方向に向かいます。そこから道は九十九折れで斜面を下って往きますが、沢筋に至ると、水害で沢がガレ場となっているため古はどうであったか不明ですが、十七曲数えることができました。その”唐丹坂”を南に向かって下って往くと、途中沢の西側を下る旧道の両側に、非常に良好な状態の”七里塚”が残っています。特に東塚はその外面を大きな石で覆われており、かなり丁寧に築かれたと思われます。また少し下ると水害により旧道もかなり荒れており、そこを下り、坂の登り口に達します。県道にでますが、当然昔はこの道は存在せず、そのまま旧道は沢まで下り、沢の西岸を海方向に下ると、仙台藩本郷番所跡に達します。そこからはさらに海岸に沿って南下し、大曾根川に沿うように西へと大曾根地内を向かいます。その街道筋には石碑群が迎えてくれます。大曾根橋を渡ると桜峠下になりますが、そこから九十九折れで桜峠に登りゆきます。峠を越えるとゆっくり山の南斜面を小白浜へと下って往きます。現在の桜峠トンネルの西側入り口の傍を過ぎ、盛岩寺へと向かう坂をくだりますが、古の旧道はそこからさらに海岸近くに下ったようですが、その道はすでに存在しないようです。そこから海岸に沿い少し行き、現在の市道の方向に登り、国道45号線を横切って、信号機があるところを”伝城坂”を山へと入って行きますが、旧道は存在しています。県教委報告書の比定ルートは海岸に沿ってとなっていますが、岩場が海に落ち込んでいた“鶴来ツルギ”はその昔は道などはなかったようです。伝城坂を越えると片岸川を河口近くで徒歩で渡り、片岸地内に至るとそのあたりに一里塚があったそうですが、今はその姿は一切ありません。

A-1)切り通された石塚峠頂上を南に通ります。古、ここは盛岡南部と仙台伊達藩の境で、その

印杭が立ち、南部は平田、伊達は本郷に番所を置いて通る旅人を調べていました。

A-3)十七曲の下は沢筋を下りますが、水害で道筋は非常に荒れています。そこからさらに下ると”七里塚”が非常の良好な状態で残っています。塚木は見当たりませんが、大きな石で周囲を補強しているのを見ることができます。

B-2)沢筋の旧道を下ると本郷番所に至ります。この200m弱下手は海になります。

C-2)桜峠を登ります。登り始めからしばらくは旧道は残っていますが、頂上近くからは伐採作業による作業道がかなり旧道を消滅させています。

D-1)桜峠から小白浜地内を下り、浜辺に近いところまで下るとされますが、そのあたりの道筋は失われています。そこから坂を登り、現在の西側で国道45号線に出るところを横切り、伝城越えという山道を峠越えして片岸川に下ります。盛岩寺前。

D-3)伝城越、

この小さな丘を越える旧道は今も残っています。

A-2)峠を南に下ると頂上直下は勾配が急なため、数えると十七曲ありましたが、もう少し多い可能性があります。

B-1)唐丹坂を下り終えるところに石碑があります。ここの道は昔はなかったもので、旧道はこの石碑横を沢まで下ります。

C-1)本郷番所傍を通過した旧道は西に方向を変えて本郷の大曾根地内の平地を見えている桜峠に向かいます。

C-3)桜峠から小白浜をみます。この峠は標高80mほどです。

D-2)小白浜から信号機のところを国道を手前の道にあがってきます。海岸にある道は”鶴来”といい、崖が海に落ちる所で近世道はありませんでした。

E-1)坂を下り片岸川にでます。

ここは河口近くを歩いて渡河したといいます。川を渡ると片岸地区ですが、ここに一里塚があったといいます。ここからは2ルートあり、熊の木峠または清水峠を越えて荒川にでます。


2)片岸から清水峠、荒川

 清水峠、熊の木峠を下った旧道は下荒川地内で現在の田の中にあったとされる道を熊野川に向かい、熊野橋で川を越えて南下します。橋の袂には東日本大震災の津波後100mほど西に移動した石碑群があり、その中に道標があります。そこを200mほど南下すると鍬台峠の荒川側の登り口となります。そこは皆伐10mにもならない所ですが、そこから海抜430m程の鍬台峠を街道は越えて吉浜村に至ります。田野畑村の2つの坂は難所で有名ですが、そこは上り下りの高さは概ね130mほどで、鍬台峠の厳しさがわかると思います。因みに北にある藩境の石塚峠も300m余りの高さがありますし、浜街道ではないものの、盛に向かう荒川沿いに西に向かい越えてゆく五葉山南麓の赤坂峠も700m以上(712m)の標高があります。旧唐丹村は東の海以外南北西は険しい峠で難所に囲まれた村であったといえます。

 熊の木峠の踏査はお待ちください。

A-1)旧唐丹小学校側の上にある旧国道45号線より下部は、藪化しており、またゴミ捨て場のように汚い状態となっている。新たに堤防が建設された所で旧道は消滅しているものの、なんとか旧道はわかる所が残っています。

A-3)新道峠(清水峠)頂上、

峠には2つの石碑が旧道を挟んで佇んでいる。この峠道は仙台伊達藩が飢饉の救済策として行った公共事業として建設され地元住民への救済となったといいます。

B-2)新道峠を降りた旧道は荒川側にかかる橋を越、向こう側の鍬台峠へと向かう。この橋の袂には石碑群があったが、津波後西側に約100m移設されております。

A-2)峠に往く北側の旧道。

峠北側も旧国道から上部は、比較的良好に旧道は残っています。

B-1)右手の谷筋が峠からの荒川側の降り口となっているが、田んぼのあたりでは旧道は失われています。


3)-1鍬台峠(北側)

 荒川の鍬台峠登り口から大船渡市吉浜の降り口は現在環境省の”みちのく潮風トレイル”にもなっていますが、途中2か所ほど旧道ではなく林道を通ります。つまり古の旧街道で不明の所があるという意味でもあると思います。2022年4月17日この荒川から鍬台峠までの旧道踏査を行い、県教委の報告書「浜街道」、釜石教育委員会「浜街道(上巻)」でもルートが判明していない、また違った比定となっていると考えられる所を調査し、不明の旧道を見つけました。一か所は、荒川側の登り口から比較的近い所で、現在杉林となっている所の北側に接する凹んだ近いのところが入り口でそこが旧道跡にて、登ると小峠の大きな切通しの道に接続しています。林道造成で旧道の接続部がはっきりしない状態にされてしまっています。もう一か所は、小峠を越えて沢沿いの林道化した道を登って行くと沢にかかった橋にあたります。潮風トレイルが橋を渡らず林道を北上するところ、旧道は橋を渡り左に沢沿いに林道化した道を登って行きます。やがて皆伐された斜面、登って行く林道の右側に折り返すように作業道がありますが、それが作業道化された旧道で、そこを登り左、右、左と三曲がりするあたりから旧道の姿となり、尾根の東側斜面を縦に掘った良好に残存する旧道がD)の林道のY字路の北側で林道に合流してきます。この道跡は大正の地図に一致します。斜面の上の方にある道は、どこでもそうですが、下から見上げただけではその存在はわかりません。その場所にあがってみないと、旧道の有無の判断は難しいと思います。旧道は落ち葉に覆われており、上や下から見ても非常に見分けが難しい部分が多く、実際に旧道に立ち、右の凸凹、掘り下げ方、道脇への土の盛り上げ方、削り方などを見てみることで旧道が見えてきます。

 鍬台坂の中程の林道のY字路から峠まではほぼ完全に旧道が良好に残っています。途中峠の近くはそのあたりの岩を鏨で切り出して、その小さくした岩を多数使って道端の石垣を築いて補強したりしています。また岩を砕く際に使った鏨の跡が残っている岩も見られます。かなりすごい仕事量が投入された街道です。鍬台坂の吉浜側の登り口に石畳道が作られていますが、あわせてみれば、この鍬台坂はかなり丁寧に構築された道のようです。しかしほとんどの旧街道がそうであるように、いつどのように作られたかの記録はほとんど残っていません。林道Y字路から上部の旧道の九十九折れを数えると、峠頂上まで二十一曲ありました。道の峠までのやや広い場所などには複数の並行した旧道がみられる所があります。

A-1)荒川から鍬台峠への登り口。ここからしばらくは伐採作業のための林道化している。道筋はほぼ変わっていないと思われます。

A-3)新に認めた旧道からこの小峠に至る切通しを通る。ここを過ぎると小峠となります。

B-2)200~300m林道を登って行くとその道から右の長根に上る道がそれとなく現れます。うん?と思いつつそこを三曲がりほど登ると長根の東斜面を縦走する旧道が良好に残っています。

D-1)旧道は林道がY字路となっている交差点の北に延びる林道の交差点から30mほどの所にでますが、そのあたり一帯は藪化しています。潮風トレイルは東側の林道を来て、トトロの立っている峠への登り口を上がって行きます。

E-1)所々、二筋に分岐して合流する所があります。こうした街道はいろいろな所でみることがありますが、道を作る余裕のスペースがある場合、複数作りすれ違いしやすくしているのではと思われます。

F-1)峠のすぐ北側は広々した風景の林になります。ここも広い分幾筋かの道が存在します。

A-2)標高50mほどの草地と杉林の境に凹みのあるが沢などはない所があり、これが現在藪化している、旧街道です。そこを登って行くと、小峠手前の切通しにつながっています。

B-1)小峠を過ぎ林道化した旧道を登って行くと沢の合流点に橋があります。潮風トレイルは橋を渡らず林道を登って行きます。しかし旧道は橋を渡り皆伐された長根の東側を登りゆきます。この部分の旧道は地図からも一切消えており、位置不明にて、これを確認することも今回の目的でした。

C)長根の稜線のすぐ東側を南南西方向に縦走してゆく、掘られた道跡が残っています。普段は誰も通らない、誰も知らない忘れられた旧道を認めました。伐採仕事をしている林業の方がそのことをわかっているかは不明です。

D-2)林道交差点から上は、ほぼ旧道がそのまま良好な状態で残っています。掘削された道、うどう道、九十九折れ、石垣で補強された道、さまざまな道に出会います。

E-2)尾根筋をうねうね登る旧道が上に行くほど尾根の幅が狭くなりますが、そうしたところの道端を補強するため石垣を現場で拵えて補強している部分があり、周囲の岩に鏨の跡が残る場所があります。ここも細かく九十九折れになっています。

F-2)鍬台峠:北側から峠をみます。ここも切通されているのがわかります。


3)-2鍬台峠:南側

 峠北側の峠の近くの狭い尾根筋は岩ばかりの状態となり、そこは岩を砕いて加工し構築した路端の石垣などがみられ、とても手の込んだ旧道となっています。一か所岩を砕いた鏨の跡が残っている所があり、手作業で苦労して作った人々の苦労が偲ばれます。そこから峠直下の開けた所には岩は少なくなり、複数のルートが残っていて、峠頂上の切通しに至ります。峠道は岩は少ないものの、左側には一面無数の小石が積み重なっている塞ノ神があり、そのてっぺんには長さ45cmほどの石が塞ノ神として立っています(現在倒伏している)。峠の南側はかなり広い広場のような開放感のある木の少ない草地となっており、50-60mほど緩斜面を残っている旧道を下ると、非常に良好な状態で1対の一里塚が残っています。旧道はその間を南に下り、東方向に緩く下っている斜面の西側の高い場所を行きます。そのあたりの旧道はよく残っています。さらに南下すると小さな尾根の先端を切通したところがあります。その先も緩斜面で松や広葉樹の混在した森の中をゆるゆる南西方向に行きます。そこの旧道ははっきりしませんが、所々で痕跡を見ることができます。気仙郡村絵図に記録される”クマノ穴沢”が間近に迫ると”小鍬台”の山が眼前にせまり、そこで沢を渡り、小鍬台の峠の切通しを抜けて九十九折れの下りにかかります。その切通しには二筋の道跡が残ります。またその峠には多くの熊の糞が固まってあり、熊の糞場(汚くてすみません)と化していました。 そこから杉林の中をうねうね七曲ほど下りますが、その左側=東側にはもう一つの道跡があるように見えます。下から二曲のところまで旧道が昔のすがたのまま残っていますが、そこからは拡幅された作業道に

なり、古の道の姿はなくなっています。300~400mほど下ると小さな尾根を機械で切通したところを過ぎ、急な下りとなります。潮風トレイルはその左側の急斜面の方向に道筋が変わりますが、旧道は林道で埋められたその場所を杉の密な植林された場所を貫いて、その下部にある切通しにつながります。そこをすこし右に曲がり下り、また急斜面を右にカーブします。そこからはほぼまっすぐ杉林の斜面を下って行きます。潮風トレイルがほぼまっすぐ下る、複数の道の分岐部につくと、南に下ってきた旧道は左の沢方向に北東に大きく角度を変えて下り、60-70mで沢を渡り右方向にゆるゆる曲がりまた南方向に下っています。県教委の報告書はこの街道筋はほぼ直線で表されています(地図の紺のライン)。

A-1)鍬台峠頂上、切通した峠頂上の東側に小石が積みあがったてっぺんに高さ45cmほどの塞ノ神があります。この小石はここを越す旅人たちが、塞ノ神にささげたものと考えますが、無数に積みあがった小石をみるとそうした古人の思いを感じます。

B-1)峠頂上から”小鍬台”という峠まではゆるやかに林の中を下ります。ここは旧道がときより姿を消しますが、一部には切通しが良好に残っております。

C-1)”小鍬台”と呼ばれる小峠は切り通されています。そこを通過するとその南側は杉林内の急斜面となっており、九十九折れとなります。この切通は”熊の糞場”となっておりました。

D-1)作業道化し拡張された杉林内の旧道。

A-2)峠を越すとすぐ南側は広々とした広場みたいになっており、一里塚が良好な状態で二基とも残っています。旧道はその間を緩い坂となって下っていきます。

B-2)こうした松林の比較的広々した所を旧道は南下します。

C-2)小鍬台から七曲ほど急斜面を下ります。写真右手から下ってきます。下部は作業道として機械で拡張されていますが、旧道の経路は同じと思われます。


4)  鍬台峠南~吉浜

 鍬台峠を吉浜方向に下ってくると、上図のように赤の実線のようなルートで下ります。標高250m程度では機械で切通した所にきますが、その北東側の斜面に旧道らしき痕跡が残っています。そこを下るとすぐに右に、鍬台トンネル南口の西側に通じる林道が分岐します。そこを杉苗を多数植えている沢筋を下るのが旧道と考えますが、このために潮風トレイルはそこの斜面上を迂回するように下るように設定されています。その下は旧道跡が続きます。小さな尾根を右に回り込みつつ下り直線的な経路で尾根東側をまっすぐ下る場所を往きます。鍬台トンネル南口前の駐車場が見える場所で旧道は下りつつ北に向かって、沢の上流を渡り、東に向かいます。そこには道の西側に石材で作られた堰が続いています。市道でいったん途切れますが、その市道南側からまっすぐ南下して行く旧道がまずまずの状態で残っています。南に下りきると根白の石畳道にいたり、轟川縁に達します。そこから扇洞までは現在の県道がほぼ旧道に一致していますが、轟川から300m程度往くと右の藪中にいったん入り150mほど藪中を行って県道に合流します。扇洞地内に達した旧道は部落内で沢沿いをいったん海側にくだって西に回り、県道を横断し、その北側に行くのですが、その間が調査によっても未確定で、今後の調査結果をお待ちください。そのあたりから県教委の歴史の道調査報告書「浜街道」では新山神社付近まで県道に一致としております。扇洞の県道北に交差する旧道は、白木沢一里塚までは県道の北側に一部畑で消滅しているものの、旧道跡は残存しています。一里塚を西に沢筋をカーブすると斜面を登り畑の中を通り、三陸鉄道の北側を吉浜駅北側に沿って往く旧道は現在も使用され、よく残っています。その道筋には2か所の石碑が存在します。少し行き三鉄を南に横断し正壽院南側に達します。正壽院の正門前には石碑が多数残っています。正壽院から新山神社までの旧道は正壽院からいったん一つ海に近い道に行くのか、不明であり、ここを精査するのは今後の課題です。新山神社を過ぎると県道にそって西進し、国道45号線を北側に横断し、吉浜川にそって北西にいき、大野、平根、釣漁峠に達します。

A-1):標高250mあたりに切通しがある。これは機械で作られたものであるが、その写真右手上に接するように、旧道らしき痕跡が残る。

A-3)少し下ってくると小さな尾根を右手に回りこみ、そこからはまっすぐ下って往きます。ここは旧道のまま残っています。

A-5)下ってきた旧道はいったん尾根の先端(潮風トレイルが下から合流)を北側にぐるっと回って下り、沢を渡って徐々にまた南に下ります。

B)いったん県道に合流した旧道は、また県道北側の藪の中を往き、150mほどでまた県道に合流し扇洞に至ります。

D-1)民家の前を来る旧道の脇には石碑が佇んでいます。

E)正壽院。この前の道は旧街道ではなく門前から参道が南に50m程度あり、そこが旧道となります。

A-2)切通し方向からみると、正面の緑の杉の苗木が多数植えている所が地形上低くなっており、旧道はここを下ったと考えられる。潮風トレイルは左手の斜面上に迂回している。

A-4)よく残る旧道をまっすぐ西側の長根の中腹を下って行きます。(この部分は潮風トレイルの一部ともなっています)

A-6)南に下る道の右手に、石組で堰が作られていて、これが近世のものか、近代のものかは

現在不明です。この旧道は市道のカーブの連続する場所を、その東端に沿うようにほぼまっすぐ下り石畳道に続いていきます。

C)扇洞を過ぎ、県道北側の山中を西行してくる旧道の脇に、南塚のみ白木沢一里塚が残っています。ここから沢を渡り左にカーブすると道脇の細道となりそこをあがり畑の中を往きます。

D-2)前の写真から続く道をくると吉浜駅北側にある石碑が元の位置に保存されている所を通り、坂を下ると三鉄の線路の南側に旧道は移ります。


5)吉浜~越喜来河内

 正壽院と新山神社の傍を過ぎ、900mほど行くと、国道45号線を横切り、大野地内に入ります。国道を過ぎた吉浜川脇に石碑があり、右手にお社があります。市道はまっすぐ行きますが、そこを左折し川沿いに西に進みます。舗装はされているものの、旧道の雰囲気が残る道を進むと、500m程でT字路となっていて右に道が分かれるところに、六地蔵と石碑群が見えます。そこをさらに直進すると階上橋をわたります。階上橋の袂にも石碑が佇んでいます。そのあたりから山の中に徐々に入っていく雰囲気となります。階上橋を越えると平根地内となり、やがて最後の人家を過ぎると、道は林道化しています。その左右に所々旧道が草生しているものの残っているのが見られます。杉林にはいるあたりはY字路となっていますが、林道はまっすぐすすむようになっているものの、右の道が旧道で、そこを進むと平根の一里塚が目に入ってきます。両塚残っております。そこを過ぎて進むと、旧道はいつのまにか姿がなくなり、沢筋を捜索しても判然としません。沢を南に越て林道に戻りさらに進むと林道が右に急なカーブを描いて北上しますが、そのカーブする地点をまっすぐに西に杉林を登るところに旧道と思われる道が現れます。沢の北岸を進んで往くとやがて、小さな長根が進路に横たわるようになり、沢は右にカーブしていきますが、長根に当たるように往き、斜面を左の方向(南)に

上がって往くとさらに右に曲がる所には旧道がみられ、釣漁(つりょう)峠に到達します。道に接するように右手に1辺が5m程度の四角な石積みが残っており、平根番所の跡と言われています。釣漁峠は落葉広葉樹に覆われて、比較的なだらかな地形で、冬季は一帯が光に覆われ、とてもきれいな峠と思います。峠を越えて西に下る所は2~3ルートの旧道が確認でき、緩やかな地形を利用して、すれ違いなどの利便性の為に複数のルートを作ってあるものと思われます。広葉樹の森を緩やかに下って往くと小沢をわたり、小さな切通しを抜け、”夏虫の湯っこ”の東側の沢沿いに森の中を叢、笹藪などを抜け下ります。小さく曲がったり少し登ったりしつつ斜面を下ると、市道から夏虫の湯っこに曲がるところのグランドの北側で旧道は消滅します。そこから旧道は市道に取り込まれつつ河内へと向かいます。

 

A-1)新山神社前を西に進み右へ緩いカーブから写真左の遠くに釣漁峠が見えてきます。浜街道はそこを越えてゆきます。家が見えるあたりを左折すると越喜来に向かう、羅生(らせい)峠道となります。

B-1)吉浜川沿いに進むと右に道路が分岐するT字路にも石碑が数個佇んでおり、そこをさらにまっすぐ平根の方に進みます。

C-1)平根の林道化した旧道を徐々に登ります。林道の脇に旧道らしき道がところどころに残っています。

D-1)杉林内をわずかに旧道が残り、釣漁峠下に達します。

D-3)釣漁峠越喜来側、

峠を越えて越喜来側をみると結構広々した感じの緩い斜面を2~3筋の道跡が確認でき、すれ違いを考えた複数の道づくりがなされていることがわかります。

F-1)河内までは旧道は市道の舗装道となっています。

F-3)前の地点をさらに叢を漕いで西に進むと旧道跡が良好に残っています。そこを下り、K家の前を浦浜川をわたり、笹薮に残っている道跡をたどり少し坂を登ります。

A-2)さらに旧道を進むと国道45号線を横切り、大野地内に入る吉浜川の東側の縁に斜めに形見浮いた石碑があり、この先のY字路を左に川沿いに進みます。

B-2)T字路から200mほど進むと階上橋を渡り平根地内に入ります。橋の平根川に地蔵尊と石碑があります。

C-2)平根一里塚、林道を進むとY字路が現れ、右の細い旧道を往くと旧道を挟んで一里塚が両塚残っています。ここから西側に行くと、旧道は消滅します。

D-2)釣漁峠、

峠に達するとなだらかな落葉広葉樹の森になり、そこにコの字型の平根番所跡とされる石組が残っています。この峠は広々と感じ、開放感が感じられます。

E)釣漁峠を下りゆくと、丈の低い疎な叢を旧道跡が残っていて、広葉樹の林の中を南に下って行きます。途中一部藪がありますが、おおむね旧道跡は判別できます。”夏虫のゆっこ”の坂下のグランド脇で旧道はいったん消滅します。

F-2)河内の糠森神社前をまっすぐ西に旧道は行きますが、このところは道跡は消えています。

手前の舗装道をそのまま行くと、新峠を越えてくる道と合流、新峠の河内一里塚が一基残っています。

F-4)笹藪の坂を登ると河内一里塚が残っています。その間を通り緩い坂を市道にでると、そこから旧道は明確な状態では存在しません。


6)越喜来河内~立根町:生江峠(銚子ノ口)、新峠

 越喜来の河内から、旧街道は二筋存在します。最初に作られたのは、河内一里塚から西進し、生江(名前)峠=”銚子の口”を越えて、大船渡市の立根町(旧立根村)の萱中に下る道です。陸奥国仙台領元禄国絵図ではその経路が描かれています。五葉神社周辺にあった萱中一里塚を通り、国道を横切り、国道と立根町内の市道との間にある旧道となります。もう一筋は、近世後期(具体的な時期は不明)に新たに作られた”新峠”を経由する道筋です。越喜来の河内で別れた新道は、浦浜川を南にわたり、南下しつつ新峠を越え、立根町の最東部の畳石に下りてきます。そこから立根川の北側を西進し、五葉神社の西側で古道と合流します。面白いことに、河内に直線距離300m程度の中に、生江峠ルートの河内一里塚と、新峠ルートの新河内一里塚の二つの一里塚があり、また立根町内の萱中にも生江峠ルートの一里塚があったことが元禄国絵図などに描かれています。また新峠ルートで同じ立根町の、萱中一里塚と、これも直線距離300m程度の細野に、新道の一里塚が一基現存します。当初なぜおのおの二組の塚が近距離に存在するのか不明であったようですが、後に新峠に新たな街道が開削されて、それへの塚が建てられたことが判明したようです。

 新峠ルートは2022/3/21に踏査し、生江峠も4/3全経路踏査しました。

生江峠の方が古い道で、当初前述のように最初一里塚はこちらに築造されました。生江峠道は五葉神社の西側を北上し、旧大船渡農高のグランドをイモノ洞沢に沿って行きます。養鶏場の施設で登り始めの部分はほぼ消滅していますが、施設最上部の上の杉林内に旧道が出現し、斜面をウネウネと東に往き、尾根越えには浅めの切通しがしっかり残っています。さらに北東に向かい、北から何流する沢の所で北東から下る沢の右岸、林道の下を北上して行きます。林道が九十九折れとなっても、旧道は枯れ沢となった沢のほとりを峠に向かいます。峠下での枯れ沢のどん詰まりではおそらく旧道は何曲かして峠に達すると考えましたが、山林皆伐と作業道の造成、植林などで消滅しています。かなり厳しい上り坂が続いてようやく峠に達します。一方おそらく幕末に近い時期に作られた新峠道は、真下の畳石までは緩い上り坂で、畳石から新峠頂上まで、生江峠よりも登りは短い距離で峠に達する、生江峠よりは幾分峠越えは楽になっています。生江峠はまじかに両側に山が迫って視界があまりとれませんが、新峠は登りの後半部から下りまで、視野は広く遠くの景色までも楽しめます。

 生江峠の県教委のルート比定は、戦後造成された林道ですが、実際は峠下から大部分は沢筋をほぼまっすぐにたどることが明らかになりました。

A-1)新峠河内一里塚、

糠森神社前を南に往き、浦浜川を渡る手前に一基のみ一里塚が残っています。ここから直線300mほどの所には旧浜街道本道の河内一里塚が残っており、近い距離に二組の一里塚が存在する珍しい塚になります。

A-3)新峠、

河内からの登りは比較的な緩やかな坂を来ます。広葉樹の森で冬は非常に明るく、広々する道筋です。

A-5)峠の南は比較的急な坂になりますが、九十九折れは最高三曲がり程度です。そこから沢沿いにほぼまっすぐ下り畳石に達します。坂の下の方は産廃貯蔵施設などで、道跡はわかりません。

B-2)旧道と孫太郎の墓所、

明治二年、大石から所用で実家のある立根に向かっていた孫太郎は、江戸脱走の無頼の侍にこのあたりで殺害される事件があった。その孫太郎を弔うお墓が旧道脇にある。お花が捧げられていました。

D-1)峠下の枯れ沢の右岸を往く道が見えます。

D-3)杉林内に尾根を切通した旧道も残っています。ここをカーブし、さらに杉林内を九十九折れに下り、養鶏場の最上端に下りてきます。

F)さらに下の杉林内に、拡張されてはいるものの、旧道が残っています。

G-2)さらにこの細道が旧道で五葉神社の北側にきます。このあたりに一里塚があったということです。

A-2)一里塚から100mほどで浦浜川を渡り、はっきり残る旧道を新峠に向かって登ります。旧道は一部林道が並行していて、沢に近い所にガレ場となって残ったりしています。

A-4)新峠を南に下り始めるとすぐに尾根を切通す道が立派に残り、結構な工事量であったと思われます。

B-1)畳石に下りて来た旧道は、国道45号線と三陸自動車道で寸断されている。しかし立根川の北岸を道跡は概ね残っており、下流方向へと下って往きます。

C)細野一里塚、

根元を石垣で保護された新峠への一里塚一基が五葉神社の東側に残っています。古道である生江峠の一里塚は、写真の右側の林にある五葉神社の西側の旧道の少し北にあったとのことです。ここでも近距離に一里塚が二つあったことのようです。

D-2)さらに坂を下っても、枯れ沢の左を、前方に見える林道がカーブを描く所に直角に下ってそこを横切り往くのがわかります。この下では林道を横切り沢筋をさらに下ります。

E) 林内はかすかに旧道が見えますが、この下からは市道に取り込まれているように見えます。

G-1)旧大船渡農高でいったん消滅した旧道は前方左の金網と生垣の間をとおりこちらにきます。

G-3)旧道は五葉神社の正面右の森の手前を左方向から手前の国道45号にいったん合流し、写真を撮っている道につながる。

細野の新峠への一里塚は五葉神社のさらに向こう側に存在する。


7)立根から猪川

 現在の大船渡自動車学校玄関前の向にある”トリヤ坂”を下り、関谷の街並みを通過すると立根川の西岸に沿って猪川町境まで南下していきます。川沿いの歩きやすい道です。古の猪川村境に達すると昔は田畑などであった前田地内を南下しますが、旧道は今は消滅しており、地図のよう西側に迂回するように盛川ほとりにでます。そこから権現堂橋を渡りますが、そこは盛街道の分岐でもあり、一里塚があったといいます。権現堂の橋は江戸時代からほぼ場所は変わっていないようで、そこを田茂山村盛に入り、昔とほぼ変わりない盛町の繁華街の道が旧道でそこを南下します。

A)立根川原の石碑群、

南から北を見ますが、右手に立根川があり、こうした歩きやすい道を南に行きます。

C-1)猪川町内の旧道跡。

旧道とは完全に一致しませんが、このあたりを写真向こうの盛川に向かい旧道は田んぼの中をいきました。昔の風景はまったく残っていません。

B)堰口不動尊、

立根川縁から昔の猪川村に入るとその境に堰口不動尊がありますが、山の鼻にあるものの今は住宅街の背後に隠れてしまっています。

C-2)猪川の道標

その昔権現堂の橋から盛川に沿って西に往き、一里塚があった付近で盛川沿いに往く盛街道と、そこから猪川村を北上する浜邊道が分かれる所にあった追分碑です。右吉浜唐丹はまなんぶみち、左有住世田米おかなんぶみち、と刻まれています。


8)盛町から大船渡町

 盛町の町の中の旧道を南下し、現在の税務署の前で市道に合流しますが、市道を斜めに東側に横切り(その部分は現在消滅)、もとの線路、現在のBRTの東側にでて現在の市道を南下していきます。田茂山村、盛町の南北に走る道はそこのみで、現在盛駅前を通り南下する市道はありませんでした。そこは盛川の川原の一部であったろうと思われます。

A-1)浜街道の猪川町川から権現堂の橋と盛町(田茂山村)側をみます。盛の橋の袂には槻木の巨木が古より旅人を見守ります。

A-3)橋の袂から赤い屋根の右の盛の町の中に道は入って行きます。

C-1)盛町を通り過ぎて来た旧道は、現在の税務署前を斜めに県道を横切り、道の向こうの建物の向こう側にある小道となり、大船渡町へと入ります。

C-3)3.11の津波で市街地は姿を消し、復旧工事などで旧道の道筋は多少ずれがでましたが、

写真の信号向こうは須崎川で、その手前に一里塚があったあたりは、ほぼそのままのいつ関係です。旧道はビルの左の海に沿って下船渡、丸森へと向かいます。

A-2)権現堂橋の盛側、槻木古木の根元には、石碑群があります。ここから街道は手前側に曲り町の中に入ります。

B)盛町の街並み。

古よりの町並の姿を伝えていますが、現在の大船渡市での中心地として盛町は発展してきました。道筋はほぼ変化がありません。

C-2)大船渡町内を南下する県道となった旧道。右の丘は地ノ森峠が海側に張り出した地形で、旧道の左側(東側)は盛川原から海となる場所です。


9)大船渡町南部

 大船渡町内、旧大船渡村から旧末崎村まで、旧道は海に沿って南下してゆきます。大船渡村絵図でもその道筋は近代でも変わりはありません。

しかし道筋には石碑などの信仰の対象はあまり見られません。下船渡の貝塚横に石碑群がありますが、移設されている可能性も否定できません。

下船渡の石碑群を下ると丸森の一里塚手前までは崖に沿った所を南下します。