4,田野畑村田野畑から普代村

1)田野畑(地区)からキリプセ峠・キリプセ坂

  田野畑地区から”明戸道”を北方向に向かうとB)あたりからは砂利道となり車一台分の幅しかない林道が長根に沿って続く。旧街道の姿を結構残しているように感じます。長根であり数メートルの高低差程度はあるが、平坦に近い道を往く。1.5kmほど東に進むと、少し広い場所=”キリプセ峠”に到達します。そこには見上げるような天を衝く根元がほぼ接近して数百年成長してきた”二本松”があります。その二本の松の間には小石が積み上げてあり、”サイノカミ”として祀られています。その西側の道の北側に笹に覆われ、キリプセ峠の一里塚が残っています。笹薮の中に北塚が1.5mほどの高さ、南塚は50-60cm程度の高さですがかろうじて残っています。

 二本松のすぐ東側には北斜面に降りていく”明戸道の坂(=キリプセ坂)”の降り口があります。この長根道を下り、さらに北の机や黒崎を目指すとすると、南に下り北ノ沢筋に降りて、下流に沢沿いに下り、羅賀に着く。羅賀からさらに大宮神社の脇を坂を上がり、明戸に下ります。そして”ボナリ松坂”へ、というルートが路程記に(順路は逆であるが)記載されています。しかし地元の方に聞くと、誰しもが明戸の坂を下り明戸川沿いに平地を歩き、その後ボナリ松坂を登る、というルートの方が坂の上り下りが一回少なく楽なはず、と思います。 

 その後調査・踏査を行い、”早坂”は羅賀から平井賀川の北側の尾根に発見し、踏査し、路程記の記述通り、その長根から平井賀川の傍に屋号”羅賀沢”の旧家が存在しています。

 キリプセ峠から北に下ると、旧道が笹藪と化しているもののしっかり存在していました。小さな北に突出する長根の突端から東の涸沢に向かって十四曲で九十九折れで下り、その後ガレ場と化している涸沢の右岸をまっすぐ下り川平川に到達し、明戸川方向=北東に進むと、机道と普代道の分岐、明戸の部落に到達します。

A):林の中、地理院の地図に記載されていないこの道が旧道です。ここから長根道をキリプセ峠に向かいます。人家はこれから北側はなく、廃屋が数件ある程度で、草生した道を行きます。

C):キリプセ峠の約50m程度西側の道の北側の縁に笹群の中に一里塚が残っています。このことでこの道が浜街道の主街道であることがわかります。しかし、明戸に降りる道、あるいは羅賀に降りる道のどちらが主街道かはこれのみでは不明です。

D-2)キリプセ坂

右からの下りが折れて左に行きます。十四曲ありました。

 

B):車一台が通れる道ですが、旧街道の雰囲気を残しています。普通車で通ると車の側面は…覚悟しましょう。

D-1):キリプセ峠。

巨大な二本松があり、その樹間に小石が積まれた”サイノカミ”があります。ここの10-20m東から、北斜面に”明戸道”の坂が明戸に下ります。

D-3)

左を下る旧道は杉木立の先で右に折れて下り、その先の涸沢を

右岸に渡って、まっすぐ下ります。


2)北ノ沢から羅賀、明戸

 田野畑からの長根道を、キリプセ峠を過ぎ400-500m行き、地理院地図・大正の地図、Google earthなどを使って長根道から北ノ沢への降り口を推測し、踏査しましたが、地竹の繁茂などで道跡を認めることができませんでした。また地図上の点線の道のある所は非常に急な、また泥状態の沢で、とても道があったとは思えず、斜面を移動するだけで難渋をしました。その後羅賀から北ノ沢に入り、上流にさかのぼりつつ長根道への

登り口を捜索しました。やはり地理院地図などで道が示されている所にはなにも認めませんでした。しかしA)の地点であまり深くない道を掘って作った場所を認め、今後ここを踏査する予定としました。しかし冬季までお預けです。

 路程記の記述、羅賀から平波沢までは、羅賀から”早坂”を登り長根道を”拾丁程登りゆくところを早坂””早坂を登りて左の沢の後に、沢の後ろとて家一軒あり”から、羅賀からキリプセ峠筋を登るのではなく、平井賀道の坂を登っている可能性が高いと思われます。

 2021年12月19日、田野畑からの車道を下り羅賀に入り、平井賀川が逆U字となる所に残る旧車道の部分の笹薮を漕いで上がった所に、旧道を確認しました。100m上の眺めからアプローチしたり、苦節半年、羅賀から田野畑に上る”早坂”をついに確認できました。そこは上の地図のように杉林の西側に沿って斜面を東方向に斜めに上がり、さらに東に折れてあがり、H)の地点で長根に出て、あとはそれに沿って西に向かうルートで、長根にでると、平井賀側の手前に江戸期から存在する屋号”羅賀沢”家が1軒存在するのが見渡せます。まさしく路程記の道です。しかし長根筋は非常に密度の濃い地竹の藪にかなりの部分覆われていて、すべての旧道跡は確認困難の状態です。田野畑から机や北山、黒崎に向かう場合、明戸道を往く方が近く、川沿いの平坦な道を往けて、難所を回避できる。羅賀を経て、大宮神社の峠を越えて明戸にでることは、難所が増えることとなり無駄な経路となると思われます。”早坂”の平井賀道は田野畑-羅賀・平井賀間の主要道であったのであろうと推測されます。

 キリプセ峠経由で羅賀・平井賀方向に下る道が現在確認できていないが、現地の調査により、この経路は険しすぎてなかなか経路として確立された道があったとは考えにくいと思います。県教委の「浜街道」では一里塚のあるキリプセ峠と羅賀-平波沢の早坂 を一緒のものとして記録しているが、路程記で羅賀から平波沢に向かう際の登って行った”早坂”は明らかに別の峠道であることを指摘しておきます。

 

A):北ノ沢北岸南向斜面、

杉木立の間に地面を少し掘り下げたような道跡がある。20m程度追えるものの、斜面の上はすべて笹村にて、追跡はできなかった。再調査予定。

C)右手の森の上に金毘羅神社が鎮座します。そこを右に回り込むと羅賀の集落で、道は県道の北側の部落内の道を大宮神社に向かって進みます。

E)峠は切通しとなっています。

峠の大宮神社と、北側を下る途中、数か所九十九折れの所があり、その部分2か所で右が二筋作られており、牛を連れたダンコなどがすれ違えるようになっている。写真のような荒れてはいるが立派に旧道は残っています。旧道は平井賀海荘の裏手に降りてきます。

G):明戸川河口部の北側山の麓から北をみています。ここから”ぼなり松坂”を登って行きます。路程記には”おなり松坂”と記述されていますが、ここの峠筋の松林の松が、風が吹くと木同志がこすれてボーボーと音を出したので”ボナリ松坂”と言うそうです(机の方の話です)。

H-2)長根道から平井賀川方向を臨む。現在木が成長し見通しは良くないが、木の間に路程記に記された”沢の後ろに一軒”の、屋号「羅賀沢」家が見える。まさしく路程記に著された場所と道である。

B):北ノ沢,または早坂から羅賀小学校跡地に降りて来て、羅賀小学校跡地から東にある細い道(旧街道)を登ると石碑群が迎えてくれる。そこを進むと平井賀と羅賀を結ぶ県道を横切り、もともと山があったC)の住宅地を回り込んで金毘羅神社の所に至る。

D):大宮神社の西脇を旧道は登ります。そこには多くの石碑がみられます。

F)明戸浜の北側から南を望みますが、このあたりは平地はすべて開発されていて道跡は完全の消滅しています。見えている舗装道路辺りを手前に道があったと思われます。大宮神社裏を北上する旧道は見えている山を越えてきます。

H-1)早坂、田野畑から羅賀に下る県道のヘアピンカーブを過ぎて、山側に以前の車道が残っている所の向かって左側を登ると、そこの斜面を東側に斜行しつつ登って行く、”早坂”が残っていた。さらに西側に折れて尾根の西側に登って行きます。


(補足)三閉伊路程記に”早坂”として記録される坂が、一里塚のあるキリプセ峠の尾根(北ノ沢の北尾根)からの下りなのか、一つ南の平井賀道の尾根なのか結論を下す段階ではないが、路程記の記録から、地形に合致するのは後者で、北の尾根筋にはその急斜面には現時点で道跡は確認できず、坂の途中の平井賀川縁に一軒現在も残る江戸時代から続く屋号”羅賀沢”のお宅があることから、かなり有力とは考えられます。しかし熊の目撃多数の通り道がある坂の踏査はもう少しお待ちください。

 と以前記載しておりましたが、ついに2021年12月19日そこを藪を漕いで踏査し”早坂”を見つけ出しました。上述の記録をご覧ください。そこは大正7年ごろに新たな道の工事が行われたとの情報がありますが、その工事前の大正5年の地図記載の道と、今回発見した道跡は一致し、狭い尾根筋を往く道のためその周囲には別の道跡は認めず、新たな道を作る余裕のある地形ではありません。

3)明戸から机を経て北山

 明戸から沢筋をその西脇を徐々に登って行きます。そこから4回折れ曲がる坂を、一部地竹の笹村の中を、また小さな切通しを登っていきます。すると前に急斜面が立ちはだかり、道は? と思うと斜面の左にS状に折れ曲がって急斜面を克服する形で高度を稼ぐ道が現れます。そこを抜けると、西側が崖みたいな急斜面となった道を”向いの場”と呼ばれる峠のピークの松林に着きます。そこから東西に林道が作られていました。

北方向に少し下ると、そこからはすぐ北に机の長松の峠が見えます。しかし急斜面がそこに立ちはだかり、九十九折れの急なくだりをバッタ沢まで一気に下ります。途中水害で崩れた部分がありますが、なんとか通過可能です。高低差約120~130mを下りきると、澄み切ったバッタ沢が現れます。渡渉は可能です。昔簡単な木橋などのがあったと言います。沢を北に渡ると藪になっていましたが、道跡はあり、深い落ち葉の層で敷き詰められた、誰も何年も歩いていない道がそこにあります。そこから九十九折れの急斜面を改めて120mあまり登っていきます。やがて県道のガードレールが視野の上の方に見えます。そこの上が”長松峠”です。昔は峠に”阿弥陀様”の石仏や石碑があったと言いますが、今は移設されて近くの墓地の入り口に存在しています。その峠=机の部落入り口からは部落内の昔と変わらぬ旧街道を北上します。しばらく行くと、県道の左わきに

昔道が分かれていたとわかる道跡があり、住民に聞くと、これが旧街道だった、とのことです。10m程度でその先の道跡は消えています。その先は200m先の住宅の間にあった並木の間の道跡となって現れ、そこは県道を挟んで向かいのソーラーパネルのある広場のところの道跡に続き、”小渡坂”を下り”小渡沢”に至ります。沢の縁は水害で崩れていますが、そこを向こう岸に渡ると笹村の中に旧道が残っており、”往来ド沢”まで緩く下って行きます。往来ド沢には古い苔むした木橋がかかっておりますが、今にも踏み抜きそうで渡れませんでした。沢を渡渉し上流に向かうと、コンクリートの簡易水道施設があり、そのすぐ上に斜面を上がる藪化した旧道が見えます。

(1)明戸から机・長松峠

A-1):明戸から杉林に入ると林業で使用されている旧道が徐々に北に登って行きます。

B-1):頂上近くの突き当たった急斜面では、道は左にあがり、また右にコースが戻り、S字状にカーブするように、高さを稼ぎつつ作られています。

C-1):向ノ場の北側、机部落に向いた坂の降り口は切通しになっています。左方向に急角度で下って行きます。熊の糞がありました。

D-1):左から下って来た旧道が見えます。昔は木橋があったようですが、十分渡渉は可能です。今度は机の長松峠にむけて登りにかかります。

D-3):”あみだ様”、

長松峠の頂上にあったというあみだ様は今は、そこから100m東のお墓の入り口に移設されています。長松峠は村道で造成されて昔の姿はありません。

A-2):西側が急斜面となった坂を時に地竹の中に残った旧道をさらに上ります。坂入り口から坂のピーク”向ノ場”は高低差約160mを一気に登って行きます。

B-2):標高170mの”ぼなり松坂南斜面”の頂上、”向ノ場”には松林があり、登った日は冬の強風が吹きまくっていましたが、松の木同士のこすれる音は残念ながら聞けませんでした。

C-2):急斜面を一気に下って行きます。右向こうに見えるのが机部落の入り口=”長松峠”になります。明戸から160m登ってきて、今度はバッタ沢まで100m下り、また100m登りです。それも九十九折れの連続・・・。

D-2):机側に坂を上がって来て、間もなく長松峠に着きます。バッタ沢の谷底は凍てついた雪景色、ここまでくると日差しが春のよう。

 でも、明戸から机までの上がり下がりはかなりきついと思います。一度皆さんも歩いてみてはいかがでしょうか。

同じ田野畑の思案坂(槇木沢坂)、辞職坂(松前沢坂)が難所として強調されることが多いですが、その他もこうした難所が存在します。


(2)机から往来ド沢

 ”往来ド沢”という名前の由来は、さまざまあるようですが、明治初期あたりに英国船がこのあたりで座礁し、その中の救助活動のやり取りで

英語で”オーライall right"と英国人が行ったことが、その由来、という説は英国船の遭難場所が下北半島であることが事実として存在し、否定されています。三閉伊路程記の記述では、おそらくその沢に関しては”往来沢”となっており、これが元々の名前であったろうと、推測されます。

 キリプセ峠の一里塚から小道七里の七里塚(一里塚)は机地内あたりに存在したと考えられるが、手掛かりは現地踏査で得られませんでした。

(注)小道:四十二丁で一里=六丁で小道一里(約654m、一丁=109m)、七里を大道一里(だいたい)としたもの。大道:三十六丁=一里。

E-1):机の県道を行くと、立木の下にそこから分岐して途絶する道跡を認めました。すぐ近くで作業していた漁師の方に聞くと、”これが昔使っていた道跡だ”との話を聞くことができました。

F-1)E-2から続く道がソーラーパネルの横を通って林の中を沢に降りていきます。

G-1)小渡沢を渡り、昭和40年代あたりまで子供たちの通学で使われ、そのお陰で立派に残る旧道を行くと林の向こうが”往来ド沢”です。

E-2):E-1の道があるお宅の庭を通り、この木の並木を切ったあとがある、所を通過し、県道を横切り向こうの林の旧道跡につながっていきます。

F-2)”小渡坂・沢”:

ソーラーパネルの脇を下ると十分歩行可能な旧道が小さな切通しをカーブしつつ、水害で削れた道を沢まで下ります。その小さな沢には石垣で組んだ橋の基礎が残っています。橋の基礎の石組は近代のものに見えます。

G-2)往来ド沢には板橋が残っていました。その向こうの上流には簡易水道施設があります。

その裏の斜面には旧道が藪化して残っていて、長久保に登っていきます。

 往来ド沢の名前の由来は不明です。


4)北山から普代村黒崎

 往来ド沢から長久保の部落までは、林道がジグザグに走っていますが、そのジグザグの林道をまっすぐに串刺しにするように、旧道が沢から

長久保部落手前のサイノカミまで登っています。一部藪化しているものの残存状態はまずまずです。サイノカミには石が大量に積み重ねられており、その中に倒れたままの彫られた文字の判別が不可能な石碑があります。長久保の部落内の道を北上し、また林の中に入って行き、往来ド沢の最上流を渡り、北山の部落に至ります。いったん県道にでますが、北山の部落の西側の山の中を北上した旧道は部落の最北端のお宅の敷地から旧県道(現在の村道)の東側にでてほぼ村道と並行するように北上しますが、旧道跡はかなりわかりづらい状態となっているものの、ヨシロイ沢を村道がくの字に折れて横切るところの下流で、沢を渡り、村道が旧県道に合流するあたりをそれと並行しつつさらに旧県道を西に斜めに横切っていきます。林の中を電柱と電線のラインが北上しますが、そこが旧道跡です。旧県道とは一致しない所に旧道は存在しております。さらに北に向かい押付沢(オッツケザア)を旧県道が渡る上流側を旧道は北に行き、また電柱電線のラインが林の中を走って行きますが、それと境沢の交差点に旧道の切通しが良好に残っています。そこから旧県道を横切って、境沢に下る所にも旧道が残って、沢を村道のすぐ下で横切り渡って、岸をあがると100m弱完全藪化しますが、E)を赤線道路となって往く状況がみられます。

A-1):往来ド沢から林道を横切るように旧道が存在する。長久保部落の南側には立派な切通し状の旧街道が残っている。この姿は旧街道そのままで残ってくれていると思います。

B-1):長久保の部落から北に行くと笹が覆っているものの旧道は残り、この後斜面を下り、往来ド沢の支流の小沢をわたります。

C-1):県道に出た旧道は、北山の部落内で、林の手前を左手に登って林の中を行きます。

D-1)押付沢方向に下る旧道。

電柱列がある林の中の開けた所が旧道。そこを押付沢にくだり県道の上でそこを横断し北行する。この近所に昔自宅があった古老に出会い、昔通学していた旧道の具体的な場所を聞くことができました。

D-3)県道を横切り境沢(田野畑村と普代村境)に下る所に斜行して降りる旧道が残っていた。

E-2)さらに北に進むと赤線道路として旧道が残り、黒崎のサイノカミ近くで県道に合流する。

A-2):A-1の旧道を登り来ると坂の頂上付近に小さな石がたくさん積んである”サイノカミ”が残っている。その中の細長い石には文字が彫ってあるものの読み取れなかった。ここを過ぎると長久保の部落に入ります。

B-2):ここを登ると北山の部落にでます。

C-2):旧道は北山の部落の北側の話の中を北に向かいます。集落の最北端の家の屋号は”サイノカミ”と言うようです。

 旧道は普代村の黒崎に入って行きます。

D-2)押付沢から県道北側の林にやはり電柱列があり、そこが旧道で写真のように境沢に下るところに切通しが残っている。

ここを下り県道を横切り、境沢縁におりてそこを渡る。

E-1)境沢を渡り斜面を少し上がると作業道として使用されている旧道が残っている。境沢とこの旧道跡の間は50mほど完全に藪化している。

E-3)黒崎のサイノカミ、

 なにも刻まれていない石柱が松林の中に祀られ、現在でも時に供物があげられている。小石はあまりなく、ここを通られる方は小石を挙げていただければサイノカミ様も喜ばれると思います。


5)黒崎から太田名部

 黒崎のサイノカミのあたりで、県道の東の松林内から来て県道と合流した旧道は、そこから北、黒崎の”まじない場”、旧黒崎小学校付近では部落内をぐるりと回るような道、そのものであると思われる。”まじない場”では石仏、石碑が言い伝えのまま今もそこにおわします。まじない場東側では北上し、角の先端を折れるように方向を変えて南西に向かいます。県教委の比定ルートでは上村の部落のすぐ西側から北上するようになっていますが、そのルートでは深い沢、さらに長根をいくつも越えることになり、街道を作るには現実的ではないと思います。実際はB)の地点から西に向かう旧道があり、一つ浅い沢を渡り、長根道を西北西にいくと、谷底にななめにおりていく道が残っていて、降りると路程記には小堀内沢とされる沢があり、もうひとつの堀内沢とされる沢が合流する沢の又になっています。そこを渡るとすぐに斜面を斜めにあがり和野山のJAの農場の端にとりつきます。そこからその広大な農場内はすべて旧道は開拓により消滅しています。因みに黒崎には現在の灯台の近くに盛岡藩の砲台場があり二門が配置されていました。

 現在の村道から旧道に入る黒崎の部落のあたりに、一里塚があった、と言われていますが、その跡は不明とされています。しかしそのあたりの

右わきに槻木の巨木が一本立っていますが、周囲に槻木はみあたらず、ひょっとして一里塚の塚木かも、と勝手な推測を巡らしています。

A):黒崎のまじない場

地図で示すように、旧道が黒崎の部落内で来たに進んでいたのが、円を描くように南西に進路が変わるがその円の突端に道は棘上になりその棘の部分が”まじない場”という南北朝時代に戦死者供養のために経塚が作られた場所と伝わる場所があります。

B-2)B-1村道から旧街道への入り口の50mほど黒崎側にある槻木の古巨木。このあたりは一里塚があったとされますが、槻木がこれだけ巨大化して存在するのは、塚木であったのではないか、と想像できませんか?

C-2)杉林内の長根道を来たにう往く。長根の突端付近から左に折れて斜面を下り、おそらく路程記に言う”小堀内沢”に降りる。そこは2つの沢が合流する地点である。

E):和野山、

平坦な地形がゆえに、農地として開発され旧道はほとんどは消滅し、許可を得て敷地内を探査しましたが、残っている林のなかなどにも旧道は認めませんでした。

B-1)黒崎から300m程度南西に進むと、県道から西方向に分かれる山道が旧街道である。県教委報告書の分岐は150m程度黒崎部落に近い所で分岐するが、想定ルートは、深い谷筋などを何度も越えることになり、この想定は誤りと考える。この山道を入ると150m程度で小沢に到達しそこを越えると長根道にでます。

C-1)小堀内沢と合流するもう一つの沢を越えて斜面の旧道跡を北方向に登って行くと、その旧道は一切人が入らぬらしく、厚い落ち葉の層で覆われ、湿っており、滑り落ちてしまうような状態であった。しかし道跡はしっかり特定可能な状態である。

D):長根道、

この地主の方に偶然会って話を聞くと、旧道はこの道に取り込まれた、とのことでした。


6)太田名部から普代

 ふさまの坂を2022年1月8日ついに踏査しました。和野山から坂の上の所まで以前到達していましたが、坂下はコンクリートで固められた部分が多く、下の道に降りる場所が不明でしたが、コンクリートの崖崩れ防止部分ではない場所に降り口がありました。路程記に十五曲と記載されていましたが、下りつつ確認すると十二曲でした。下の村道で三曲は削除されたと思われました。なかなかすごい坂です。クルビタチからは県道にでて昔は山が海にせり出した”中倉鼻”の削除されたところを通って、現在堤防がある太田名部の部落の北側を金比羅神社の下を、いまは存在しない”カマヤ坂”を集落北背後にあったという旧道を西に向かいます。そこから少し行って今の村道に旧道は合流し、坂を登って太田名部坂の頂上に向かいます。坂上部からさらに上に向かうように分岐した旧道は坂頂上で山の神が迎えてくれます。そこから3曲がり程度の坂をくだり、普代川の南側の県道にでます。そこから西方向にしばし行き、昔も橋がかかっていたようですが、普代川を北にわたり、さらに茂市川の合流部を渡って、茂市川の東岸にでて北上するのが旧街道と考えられます。数種の絵図でここに道が描かれており、普代の村中を通るルートは街道ではなさそうです。ここも煮詰めの調査が必要と思っています。同川東岸を北の股神社の前にでて、現在の国道45号線普代トンネルのところの坂(上堂坂)をあがり峠を越えて力持坂を下り、力持川岸にある石碑の所に着きます。峠筋は旧国道開削でほぼ旧道は失われています。力持坂の一部が山の斜面に九十九折れとなってかろうじて残っています。

A-1):ふさまの坂降り口、

ここから一気に100m余り九十九折れの坂を太田名部に下ります。

A-3):ふさまの坂2、坂上部から九十九折れで下る、坂の下部方向をみますが、写真だと急斜面の実感が伝わりにくいかもしれません。数えると十三曲ありました。

C-1):もとの海岸を、向こうに見える山が飛び出た”中倉鼻”を手前に回り込んできた旧道は、右の堤防から手前の階段の付近を右手の部落背後にありました。

D-1):太田名部坂頂上、昔から変わらず山の神がここを越える人を見守っています。

A-2):ふさまの坂上部降り口1

ここから急坂を下り始めます。

左側から下って来て、右にくノ字に折れて下って行きます。

B):ふさまの坂坂下降り口、

下は村道で削除されて、村道の下に見えるところも旧道跡は残っていません。

C-2):村道に合流した旧道はこの道を普代側に向かい太田名部坂を越えます。

D-2):九十九折って下る坂がよく残っています。


普代村中心部から北は、次項となります。

補足:田野畑から普代の経路は、三閉伊日記によれば、萩牛や沼の袋を通る経路を古は使っていたが、いつのまにか黒崎、北山を通る道が主な街道となった旨の記述がありますが、近世(現在の宮古市田老に含まれる)乙部村肝入りの文書(田老町史)によると、宮古代官所から野田代官所などへの文書の伝達などは、ほとんどが田野畑から普代間は沼袋、鳥居などを経る内陸周りであり、実際こちらの経路が海岸周りよりは歩きやすかったと思われます。実は主街道は沼ノ袋、萩牛、鳥居周りだったのかもしれません。

 また、盛岡藩領内絵図(県立図書館蔵)などでは、この海岸および内陸周りの経路の他に、その間を通るルートがあったように描かれており、野田通図(もりおか歴史文化館蔵)でも同様のルートが描かれており、このルート調査も必要と考えます。現在調査を開始しておりますので

乞うご期待。